書籍・雑誌

2022年3月16日 (水)

【書評】山とマラソンの半生 杉浦和成/著

出会いの大切さ、生きることの大切さを改めて感じました。(かずさん)

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何も知らない僕が勢いで参加した2013年のスパルタスロンで同室となりとても親切に接していただき、その後も細々ながらも交流をしてきた杉浦さんの半生の記録を2020年の春に特別に頂いたものです。

1000回を超える山行、8回のスパルタスロン完走を含む400レース以上の記録が克明に記されております。(その1回のスパルタスロンの記述に僕の名前が記されていて、とても嬉しかったです。)

百名山完登とか100回超えた程度のレース経験しかない若輩者の僕にも分け隔てなく優しく接していただき、それどころかとても貴重な自叙伝を贈っていただいた杉浦さんの温かくも優しいお人柄に改めて尊敬するばかりです。

一生の宝物として大事にさせていただきます。ありがとうございました。そしてこれからもよろしくお願いいたします。

2019年3月 9日 (土)

【書評】速すぎたランナー 増田晶文/著

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いつ頃から、自分はマラソンに興味を持っていたのか?

マラソンランナーとして、自分が最も古い記憶として思い出すのは、宇佐美選手である。(宇佐美彰朗さん)

恐らくほとんどの人たちは知らないであろうが、68年メキシコ、72年ミュンヘン、76年モントリオールと3回連続オリンピックのマラソン日本代表となった名選手である。

アラフィフも終わりかけている私にとって、自分の確かな記憶があるのは1970年代からであり、オリンピックの記憶があるのは76年のモントリオール大会からである。

宇佐美選手を知ったのはそのオリンピックではなくて、国内のマラソン中継でした。私は小学生のころからマラソンレースの中継をよく見ており、そのころ活躍していた日本人選手と言えば宇佐美選手だったのです。

私が見ていたころの宇佐美選手は国内では優勝するものの、タイムとしては世界記録や日本記録にはまったく及ばず、それを歯がゆく思っていたりもしてました。(調べてみると宇佐美選手は1970年に日本最高記録を出すなどスピードもある選手でしたが、自分が記憶している1975年前後には好タイムは出なくなっていたようです。)

その後は、宋茂・猛兄弟、瀬古利彦、中山竹通、伊藤国光、谷口、森下といった名だたるマラソン選手の走りをテレビで見て、今なお脈々とテレビ中継ではあるが、見続けてきている。

これを今書きながら、学生時代も正真正銘の鈍足であり、41歳までマラソンをしたことはなかった私なのであるが、走ること、特にマラソンに対する強い関心が小さいころからあったのだなあと改めて思った。

さて、書評に移るが、この「速すぎたランナー」は、1990年代に活躍したマラソン選手である「早田俊幸」選手の苦闘を扱ったドキュメンタリーである。

彼のデビューは華々しかった。1992年の東京国際マラソンで、それは同年開催のバルセロナ五輪の選考レースでもあって、先に名前を出した中山選手(88ソウル五輪4位)や森下選手(92バルセロナ五輪銀メダル)といった世界屈指のランナーとオリンピック出場をかけたレースで、彼らに次いで3位となったのである。しかもトップ森下選手とは18秒差だったのである。

以降、実業団駅伝では区間賞を連発する早田選手は、マラソンでは常に優勝候補と目され、テレビでマラソン中継を見てしまう私の記憶にも残っているのであるが、彼に対する強い印象はなく、優勝候補ながら一度も優勝できず、ましてオリンピックの出場もなく、消えて行ったということぐらいの記憶しかなかった。

本ドキュメンタリーでは、早田選手は早すぎるスピードを持つがゆえに、終盤に力をためるべく、ゆっくり走らなければならないマラソンで勝つことができなかったということを端的に表すべく、「速すぎたランナー」というタイトルにされたようである。

2時間10分を切るようなトップ選手の苦しみは、私のような3時間半でしかゴールできない平凡な市民ランナーにはわかるはずもないのであるが、マラソンなどの長距離においては、強いメンタル、特に重要なのは我慢しながら計算し続ける強いメンタルが重要なことはよくわかるところである。

著者は、早田選手を単純に「悲劇の速すぎたランナー」としては、扱っておらず、むしろ「メンタルが強くなかった人間的に未熟で苦闘したランナー」として、扱っている。

彼はマラソンで未勝利ながらも、国際的なマラソンレースにしか出場せず、完走した10回のレースで2位2回、3位2回、10位以内9回という戦績は、決して恥ずべきものではないのであるが、現役時代の強気な発言(「優勝を狙います」)や実業団を渡り歩いた点などから、癖の強いランナーとしては、優勝やオリンピック出場がなかったという結果が、彼の評価を下げている気はする。

2時間10分を切るようなタイムで走るマラソンのトップ選手は、最初から最後まで相当に苦しいはずであり、私のような市民ランナーでも、フルマラソンは最初から最後まで一生懸命走るので苦しくて、むしろ250㎞の超ウルトラマラソンの方が、終始ゆっくりとしか走らないので、マラソンより楽だというのも、一般の人には信じられないかもしれないが、本当の話である。

このドキュメンタリーの中でも、名だたるマラソンの名選手や指導者から、早田選手の評価を聞いているのであるが、かれらの早田選手への優勝しきれないメンタルについて、単純な評価ではないものの、傾向的には、「走りに対する思いが弱いように見える」といった評価が多かった。

それは少なからず当たっているような気がする。

やたら発言や態度が自信満々な人間はどこにでもいるが、実はそういう人間に限って、どこか自分を信じられなくて、虚勢を張っているような人物であったりするような場合がある。

逆に、目立つような言動をしないで、自分の実力を客観視しながら、自分を信じ切って、最後まで自分の力を出し切って、結果や成果をきちんと出す人物もいる。

もちろん二択のように簡単に線引きなどできるはずもないが、私が思うに早田選手は、前者の傾向が強いのではないかと思う。マラソンレースを10回完走しているが、途中棄権を4回もしている点からも、そういう傾向が見られるのではないかと思う。

本著でも、そういう風に早田選手のことを描いているように見えるのであるが、本著が上梓されたのは、当然に早田選手の許可があったわけで、そういう意味で、本著に描かれている、一社会人となられている早田選手にこのドキュメンタリーについての、ご自身の意見なり感想を聞いてみたいところである。市民マラソン大会のゲストランナーとしても参加されているようだし。

明日は古河はなももマラソンということで、休息日として走ることもできず、読書に費やしましたが、私が走る意義はなんであろうか・・・。

限界への挑戦と、限界を超えた先にいる新たな自分への期待なんでしょう。3年ぶりのサブ3.5を達成し、その後報告ができるよう頑張ります!

2019年1月20日 (日)

【書評】騙し絵の牙 塩田武士/著

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絶体絶命の土壇場のピンチに陥っても、あたふたしないという、たんに冷静でいられるだけでなく、むしろピンチはチャンスというような余裕とユーモアを持って、しかもそこから、その場の流れを一気に変えるような、そういう人物像に憧れて生きてきたのであるが、自分はまったくそういう人間には成りえていない。

それでも私はトラブルが好きで、それを楽しむような変な性格であり、それゆえに無計画な旅であるとか、トラブルが続出して苦闘する超長距離レースに出たりしているのであるが、それは自らがまいた種を刈り取る、または自らが招いた災いを克服するといったレベルの話であり、自分ではない誰かのせいで組織や多くの人がピンチになったときに、まさに救世主的な活躍で、多くの仲間のピンチを救い、感謝され、崇められるような働きなんぞは、当然したこともなくで、たぶんそういう時は、まっさきに逃げ出すような男であるのが実情であろう。(笑)

私は、そういう普通?の人間なのであるが、私のよく知っている人たちなどの周りを見回してみて、救世主的なことができそうな知り合いはいるだろうかと考えてみた。

同じ組織の中では、隣の部長なんかはそういう人物だなあと思うし、少し離れたところでは、20年来の付き合いのあるA先輩辺りは、全体が陥ったピンチからの流れを変えられる行動ができそうだと思った。

さらに組織外で考えてみると、あっ!とひとり、ふと頭に浮かんだ!

バカロード師匠である。

彼なら、ピンチに陥ったときに、絶妙の言葉と行動で、流れを一気に変える男だと直感的に確信した。なにせ、北米大陸をマラソンで横断した世界でたった6人のうちの一人である。不遜を隠さずに言えば、(私が彼に一方的なのであるが、)私と勝った負けたと争う走力レベルでありながら、さきほどの偉業を成し遂げているのである。

自分はそういう男になれなくとも、そういう男がそばにいるということは、なんだかとても嬉しく心強いものである。

さて、書評らしからぬ始まりとなったのであるが、本作品の主人公は、小説の編集者として、業界屈指の編集者でありながら、現在は組織の中で、衰退する一方の斜陽産業そのものの雑誌の編集長となっている男の話である。

本作品の表紙や挿入写真に使われているのは、人気タレントの「大泉洋」であるのだが、本作品の主人公である「速水輝也」のキャラクターは、テレビで見る「大泉洋」そのものなのである。

既視感という言葉があるが、著者は大泉洋をイメージして、主人公を作り上げたのではないか、逆に言うと、「大泉洋」はそれほどの確立された唯一無二のキャラクター何だということに改めて気づかされたのである。

ストーリー展開は、編集者として一流であり、そのうえユーモアの塊で、その場を和ませる才能にも溢れるばかりでなく、上述したような絶体絶命のピンチにも、完璧な立ち振る舞い、それには当然、日ごろからの情報収集や自己研鑽なくしては成し得ないものでありつつ、常にユーモアを忘れない対応によって、ギリギリの最低限の状態に戻すのではなく、関係したすべての人間が、問題発生により瓦解・崩壊しそうになったそこから、以前の良好な人間関係以上の前に進んだ関係にまで昇華させるのである。

組織人として、これほど頼りになる上司はいないであろう。その感じが、テレビでお見かけする「大泉洋」そっくりなのであり、それが表紙から途中に挿入されている写真になっているのだから、本著のイメージ戦略は見事の一言である。

そう言いながら、「大泉洋」のイメージとはかけ離れているのは、仕事人としてはカリスマ的である本作品の「速水輝也」は、家庭人としては、妻との関係は取り返しがつかない状態であり、不倫とも呼べないような淡白な関係である若い恋人にも弄ばれていたりして、それは、本小説においては、速水の人間性を高めるというか、完璧でない主人公に読者として共感できる極めて重要なエピソードなのではある一方、こうした影の部分をタレントである「大泉洋」はまったく感じさせることのできない部分であり、家庭人としても最高の夫であり、パパであるイメージしかない「大泉洋」って、人間的に本当に凄いなあって思ってしまうのである。

小説の中で、主人公「速水輝也」は家庭崩壊を招くとともに、以外にも仕事においても組織内派閥の争いの中で敗者として終わったかに話は終わりそうになるのであるが、最後の「エピローグ」では、敗者となって会社を去った1年半後に、予想通りの、いや予想を超えた勝者として描かれている。この気持ちの良い逆転劇は、強烈で爽快な心地よさを与えてくれるインパクトのある作品として記憶に残るものになったと思うのである。

小説の中での主人公「速水輝也」って、とてつもなく「仕事」ができる男であると理解はするのであるが、彼より少し歳が行っていて、長く生きている、つまりは先輩にあたる私にとっては、彼の「仕事」に対する熱量や姿勢の凄さに感心しつつも、気持ちの奥底では、同じ組織人として、いわゆる嫉妬のような複雑な気持ちも生じていしまうのも事実である。

それでも、私にもかつて「速水輝也」と似たように、若かりし頃には心の中にあった理想論的な社会像に向けての熱意を思い出させるものであり、今でもできることはあるのではないか?そういう前向きな気持ちには成りましたね。私も、小説内の彼ほどでないものの、小さな小さな一花ぐらい咲かせてみますか?(笑)

【追記】
 本書評を書き終えて、表紙の画像を探して、ネットでググってみると出版社のページにお奨めコメントがありましたので、それを完全引用させていただきます。

おすすめコメント

大泉洋 コメント

今回「騙し絵の牙」のカバーを担当させてもらいました。
もともと私をイメージして塩田さんが小説をお書きになられたというちょっと変わった作りの小説です。そもそも、この「騙し絵の牙」の発案の出発点というのが、雑誌「ダ・ヴィンチ」の表紙に出るとき、おすすめの本を一冊選ばなければならなかったことなんです。私は表紙撮影がある度に、「大泉エッセイ」を担当してくれていた同編集者に、いつも「お薦めの本、ない?」と、聞いていたんです。“映像化されて、私が主演をできるような小説”をと。それを、毎回訊かれるのが

彼女はめんどくさくなったんでしょうね。「じゃあ、もう大泉さんを主人公としてイメージした本をつくります!」と言ったのが始まりなんです。
今回速水というやたらかっこいい雑誌の編集長が出てくるのですが、あくまで塩田さんが私をイメージしたらこうなったというキャラクターです。たいがいダメなお父さんを演じるのが多い私ですが、今回は実に大人なかっこいい男で、この速水に扮してカバーも撮影しました。中にも私の写真が入っておりまして、私の写真集と言っても過言ではございません!

でも今、何より怖れているのが、この小説が映画化されたとき、速水役が私ではない、ということです。映画館で「特報」を観て、「騙し絵の牙」ってタイトルが出てきてるのに、主演俳優が違っていて「あー! 俺じゃない」って。
本書の帯のキャッチに<最後は“大泉洋”に騙される>ってあるんだけれど、<最後は“大泉洋”が騙される!>って。実はそれが“騙し絵の牙”だったんだと。それだけは避けたいですね。


塩田武士 コメント

実在の俳優、それも唯一無二の役者をアテガキにして小説を書く──。
芸能事務所の方と編集者と打ち合わせを続け、「完全アテガキの社会派小説」という未知の世界を前に何度もプロットを修正。新時代のメディア・ミックスに備えました。もちろん、大泉さんとも打ち合わせをし、その場で非常に鋭く厳しい読者目線のアドバイスをいただいたことにより、物語はさらに進化しました。それぞれの立場で、真剣に作品について考え続けた結果、私のイメージを遥かに超えた「小説の核」が出来上がったのです。

さらに主人公の速水輝也と大泉洋さんの「完全同期化」を目指し、私は大泉さんの映画やバラエティ番組作品中に速水が接待でモノマネをするシーンがありますが、それはほぼ全てが大泉さんのレパートリーです。改めて実感しました。こんな振り幅の大きい俳優はいない、と。取材、執筆に4年。今は「もうできることはない」という清々しさが胸の内にあります。「物語の内容が現実とリンクしていく可能性がある」──そう気づいたとき、読者の皆さまはどんな未来予想図を描かれるでしょうか?
本を愛する全ての人たちへ。さぁ、新しい扉を開いてください。

【ひと言】
やっぱり大泉洋を完全にモデルにして書かれていたのか。
どうりで、主人公の突っ込みやボケが大泉洋にそっくりなわけだし、そもそも大泉洋の写真を小説に使えるわけがないか。(笑)

2018年12月18日 (火)

【書評】嫌われる勇気 岸見一郎・古賀史健/著

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大学生活を終え、社会人になってすぐの頃の少し寂しく不安な面持ちのころ、大学の先輩から、当時隆盛を極めていた「自己啓発セミナー」に強く誘われていた。
何事も合理的・論理的・経済的な思考を重視する私は、胡散臭いセミナーにそこそこの金額を払って数日間も拘束されるようなものに参加する意味がないと、その誘いを断り続けていたのであるが、あまりに何度も強く誘われる中で、最終的には好奇心から参加したのであった。

ところが結果的に、このときの経験はその後の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。

この後の行動様式というか、もっと言えば、生き様が変わったと言って過言ではないだろう。具体的には、これ以降の私は、「自分のことを信じ、ありのままの自分を好きになる」ことにブレが生じなくなったことで、確実に一歩前に進む生き方に変わったと思っている。

それまでは、合理的・論理的・経済的なことを重視する思考力は人並み以上に有していると思いつつも、どこか自分に自信がなくて、人の目が気になって、中途半端な行動に終始していた(若いころは誰でもそうだと思うが)のであるが、その後の人生において、(血液型がO型であることも関係しているのか、)ものの見事に周りの目があまり気にならなくなって、つまり他人の目にどう映るかを気にして、なんとなくやらない、前に進まないというような躊躇や停滞がほとんど無くなったのである。

一方では、そうした変化は、天真爛漫、唯我独尊、独断専行といった他者への配慮を欠いた独善的で視野の狭い行動につながっている部分も多くなっているとは少しは思うのであるが、人の目を気にしないということは、結局それについてもあまりクヨクヨしないのである。(笑)

ちなみに当時の自己啓発セミナーが巷で問題となっていた点を解説すると、自己啓発セミナー受講者の一体感は半端なく、そうした強烈な連帯感を基に、本セミナーがビジネスである以上、さらなる自己啓発を誘発させるようにできており、つまり、より上位で高額な自己啓発セミナーを受けることが「自己啓発しようという自分の思いに忠実に生きる」ひとつの試金石とされて、結果的に数十万円もする高額なセミナーの受講させられてしまったり、そればかりでなく、「他人の目を気にしない」という実践例として、自分の知り合いに積極的に宣伝・勧誘をすることを他人の目を気にせず自分を愛することの第一歩、あるいは有知の自分が無知な他者を救済するというか、他者に幸福を導いて貢献するといった、一種のすり替えのような理論もあって、それに一部のセミナー参加者は踊らされ、今では考えられないような、空恐ろしいほどの純真かつ真摯なまなざしで、執拗な勧誘を行っていたというところである。

しかし、皮肉なもので、そういう問題となっていた自己啓発セミナー受講者の執拗さが先輩にあったからこそ、自分は自己啓発セミナーに参加でき、今の自分になることができたのである。

さて、問題の多い自己啓発セミナーを受講した私であるが、その時の受講者たちとその後、1名を除き、特段仲良くなるわけでなく、上位のセミナーも受けることなく、まして他者を勧誘することもなく、するりと抜け出すことができたのである。それは、合理的・論理的・経済的な思考に加え、本セミナーで改めて確信できた、おのれ自身を信じるということがセミナー内のみならず現実社会でも実行できるようになったからで、主催者側からしたら皮肉なことに、より高額な上位の自己啓発セミナーを受けてさらなる確固たる自分を得たいという願望というか、その実、セミナー指導者への帰依のような他者依存が生じなかった成果ということなのだと思う。

そういう意味で、人生とは自立して前に進むことが重要だと思うし、本著にはそういうことが、何度も何度も繰り返し出てきていて、ある意味、自分の半生を顧みたとき、できてるじゃないかと、びっくりしたところである。

という余談を経て、本著の書評に入っていくのであるが、本著は心理学の解説書的な構成となっておらず、ストーリーとして描かれており、主人公は、アドラー心理学を理解していない、むしろ否定的な若者とかつては理解していなかったが今は理解し実践している老学者との対話により、アドラー心理学のエッセンスや本質を明らかにしていこうとする、哲学書らしい対話形式で話が進んでいくのである。

なので、少しじれったい展開となるのであるが、哲学に慣れ親しんでいない私にとっては、その冗長的な長さがある意味新鮮で面白かったし、主人公の自分に自信がなくて、一方では他者に対して懐疑的で、結局、前に進んでいないウジウジした生き方をしていながら、議論だけは負けたくないようなところは、昔の私を見ているようだった。(笑)

本著は対立する二人の対話という問答で話が進むため、何度も同じような議論が続けられるので、私レベルでは、なかなかわかりやすくエッセンスを伝えるのが難しいところであるのだが、私も自分の記憶にとどめておきたいので、本著の重要と思われるフレーズを箇条書きで書き留めることとしたい。

以下に気になったアドラー心理学を表す印象的なフレーズを抽出する。

・問題は世界がどうであるかではなく、あなたがどうであるか
・トラウマは存在しない
・人は怒りをねつ造する(怒りとは出し入れ可能な「道具」)
・大切なのはなにが与えられているかではなく、与えられたものをどう使うかである
・あなたの不幸は、あなた自身が「選んだ」もの
・これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない
・すべての悩みは「対人関係の悩み」である
・人生は他者との競争ではない、ただ前を向いて歩いていけばいい。今の自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値がある
・人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れている
・人生のタスク
  行動面の目標 ①自立すること ②社会と調和して暮らせること
  心理面の目標 ①わたしには能力があるという意識 ②人々はわたしの仲間であるという意識
・われわれは「他者の期待を満たすために生きているのではない」
・自分の課題と他者の課題を分離し、他者の課題には踏み込まない
・自らの人生においてできることは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」であり、その選択について他者がどのような評価を下すかは他者の課題であり、あなたにはどうすることもできない話である。
・自由とは他者から嫌われること
・対人関係のゴールは「共同体感覚」
・「他者からどう見られているか」ばかりを気にかける生き方こそ、「わたし」にしか関心を持たない自己中心的なライフスタイルなのです。
・ほめてはいけない、ほめるという行為には「能力のある人が、能力のない人に下す評価」という側面が含まれている。
・自らの価値の実感は、他者から評価されるのでなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること
・「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」
・「信頼」とは他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと
・人生とは今この瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那
・一般的な人生の意味はない。人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ
・世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない

フレーズだけ読んでも意味はないので、本著を手に取っていただくか、漫画形式のものもあるようですので、そちらを手に取っていただければ、理解が進むのではないかと思います。

ちなみに本著は続編があって、その続編は「幸せになる勇気」で、副題は、「自己啓発の源流「アドラー」の教え2 」である。実はその続編の方を私は先に読んでいたのであるが、やはりこちらを先に読むことをお勧めします。(笑)

最後に、続編を読んでいることに気が付いて、本著を貸してくれた心優しい部下に感謝して、終わりたい。「良い本を貸していただいて、ありがとうございました。」

【結論】
 全員から自分が好かれることはできない。
 自分だけは確実に自分を好きになれる。
 ありのままの自分は素晴らしい。

 これらをまとめると、「嫌われる勇気」かな?

2018年11月17日 (土)

【書評】働きたくないイタチと言葉がわかるロボット 人工知能から考える「人と言葉」 川添 愛/著

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人工知能に関する読書の第二弾です。

タイトルが実に意味深で、好奇心旺盛な私は、このタイトルにつられての読了でした。(笑)

著者は「理論言語学」と「自然言語処理」を専門に研究されている学者さんです。

コンピューターの専門家ではなく、言語の専門家が、人工知能での言語処理の難しさを世に問いたくて、出版された本でした。

さて、私の話に代わりますが、日常生活で、面と向かっての会話が多いと、その場の状況や表情、ジェスチャー、イントネーションによって、感情的な部分や雰囲気を伝えられることで、人間は楽をするのか、反射的に、言語である言葉や文章の正確さが欠けるんだよなあとは日常的に感じていた。

特に感じるのは、「ここ」とか「こっち」とか「これ」といった視覚認知を前提とした客観的な修飾を省略した、いわゆる話言葉などの日常会話に甘んじていると、文章での表現力が著しく低下してくるのでは?とすら思うのである。(ちなみにそういう傾向の人が私の近くにはいるのだ。)

そういう意識を持ちつつ、さらにブログという文章で表現することを行う身としては、言葉の重要性と共に、文章を作成する難しさを日常的に感じてもいる。

常々、自分のブログを読み返すたびに、「文章が長い」、「表現が硬い」、「意味不明な表現がある」などなどを感じているのであるが、なかなかこの状態を直せない。

一方で、このような本を好んで読むというような読解力は、そこそこあるというのは矛盾しているのではないかとも思うのであるのだが、現在のAI、つまり人工知能では、とても人間の日常会話はできないということが、本著では寓話のような筋立てで、実にイメージしやすくなって、著述されている。

本著を読むと、人間の会話力の凄さが理論的に明らかであるし、それゆえに、今のコンピュータでは、人間と対等な会話のできるコンピュータは絶対にできないことがわかった。

読んで良かった、知識が格段に増えたなあと思える本でした。

惜しむらくは、本著は少し長く冗長的に感じる点があるのだが、これは著者が理論言語学を専攻しているが故なのであろう。論理重視したが故に長くなったのだろう。レベルは違うが私と同じパターンだ。(笑)

追記:
 この本には様々な動物が言葉のわかる機械を作っているのだが、イタチを主役にした理由は、言葉のわかる機械づくりは、まさに「イタチごっこ」の世界だからということらしい。

2018年11月16日 (金)

【書評】誤解だらけの人工知能 田中潤・松本健太郎/著

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人工知能に関する読書第一弾である。

副題は「ディープラーニングの限界と可能性」

読書に関しての私の幸運ぶりは我ながら凄いというか素晴らしいと常々思う。
今回もその幸運ぶりが発揮されたようだ。

これほどまでに人工知能の現状と課題について、的確かつわかりやすく書かれているものはないのではないか?というほど私がコンピュータ業界に身においてからの30年来の疑問が氷解したのである。

まず、現在は第3次人工知能ブームであるらしい。なので、そこかしこで人工知能という単語を目にする。
近年一番有名な人工知能の事件とすれば、将棋や囲碁の世界で、最強の人間をすでに人工知能は破っているというのは世間に広く知れ渡っているだろう。

また我々が購入できる家電製品などでも、AI(人工知能)搭載というのは頻繁に目にするところである。

本著で知ったのであるが、自分が30年前にコンピュータ業界にいた頃は、実は第2次人工知能ブームだったらしい。

そういえば当時在籍していた会社でも、すでに人工知能を開発し、サービス提供していて、それを会社案内で知って、入社したことを思い出した。
そのサービスは日本の株式市場に関する日本語及び英語でのニュースを自動で配信するサービスだったのであるが、日本語のみならず自動翻訳して英語までもコンピュータが記事を自動生成できることを知り、一般的な英語翻訳も間もなく可能だろうと思い込んだ。なので英語なんか勉強するだけ無駄になるだろうと都合の良い解釈をしていたことも思い出してしまった。(笑)
※人工知能の概念は共通の定義化されておらず、昔も現在も各自が自称している状況である。30年前の人工知能はエキスパートシステムと呼ばれるもので、現在では、たんなるアプリケーションソフトのレベルのものであるが、当時は人工知能と呼べるような複雑なプログラムだったものです。

当時の自分もそうだったのだが、こうした一般の人の人工知能に対する誤ったイメージについて、本著では一般の人が陥りやすい錯誤や勝手な思い込みなどを正しく、かつ、分かりやすく解説してくれている。

その分かりやすさの源泉は、専門が異なる2名による共著であるという点に負うところが多きように思う。

もともとは日本を代表する人工知能開発者の田中潤氏への執筆要請だったようであるが、一般の人にわかりやすく執筆するには、一般の人の感覚に近くて、そうしたことを生業にしているライターの協力が必要と判断し、今回のライターとして松本健太郎氏に白羽の矢が立ち、彼が人工知能の実務を知る専門家である田中氏にインタビューをし、それをもとに分かりやすい文章で上梓されたのが本著なのである。

本書評では、本著の内容を網羅しつつ簡潔に説明することは不可能なのであるが、肝については具体的にいくつか挙げておきたい。

1 ディープラーニング(深層学習)
 現在の人工知能の主流の手法。ビッグデータなどでコンピュータに反復学習させ、適切な解を導き出すプログラムをコンピュータ自らが構築する方法である。
 良質な大量のデータの確保が重要らしい。
 また開発者としては高度な数学知識が必須らしい。

2 スマートスピーカー
 対話型の音声操作に対応したAIアシスタント機能を持つスピーカー。内蔵されているマイクで音声を認識し、情報の検索や連携家電の操作を行う。日本ではAIスピーカーとも呼ばれる。
 サービス提供の裏に、リアル音声データの収集という側面があるらしい。

すでに人工知能開発の肝となるビッグデータの収集競争が始まっており、アメリカや中国がかなり先行しているらしい。
日本は完全に出遅れているらしく、将来的にはゆゆしき事態が生じると著者は警告している。

一方で、人工知能時代のビッグデータ管理は一元化でなく、分散になるらしい。分散データ管理の技術であるブロックチェーン技術は現時点では日本が最先端であるので、分散データ管理の時代が来るときに一発逆転が起きるかもしれないと書かれていた。

そのほかにも、現状のディープラーニングの限界についても分かりやすく書かれていました。

簡単に表現すると「データ化(数値化)できないものは、ディープラーニングすることができない」ということです。

いわゆる空気を読むみたいなことは、現段階では数値化が極めて困難であるため、それを人工知能が学習することはできないということです。

結論:

 人工知能は今のところ忖度することはできない。

 革新的なハードの進歩や手法の確立があるとしても、それは相当な未来のことになるだろうとの著者の論理的な見立てに、完全同意しました。(笑)

実に有意義でためになる読書でした。

2018年11月 2日 (金)

【書評】UTMB2018完走記 かずさん/著

出版関連

自分が書いたものを自分で評価するという前代未聞の取り組みです。(笑)

本著は言うまでもなく、本ブログを執筆しているかずさんが今年完走したUTMB(ウルトラトレイル・デュ・モンブラン)という世界最高峰のトレイルランニングレースの個人的な記録である。

あえてジャンルは何かと問われれば、ノンフィクションドキュメンタリーということになるだろう。

トレイルランニングという特殊な世界を努めて分かりやすく描こうとしている点や著者の内面の苦悩をつまびらかに表現している点などは評価できる部分でもあるが、文章は長く稚拙で、誤字脱字も多く、本として売り出すには値しない代物である。

それでもこの本を上梓した理由については、著者のあとがきにそれらしいことが書いてあるので、それを引用する。

あとがき

 悲願だったUTMBを苦しみながらも完走して、まさに幸せの絶頂で満を持して書き始めた完走記であったのだが、書いてみるとそれほど面白い話にはならなかった。(笑)

 最大の要因は文章力の問題なのであるが、それ以外にも、UTMBは2回目なのでいつもなら見るモノすべてに感動するようなミーハーさが生じなかったし、序盤は天気が悪く景色もいまいちだったし、なにより完走第一の戦略にブレが生じず、いつものようにあっちこっちで頻発するようなトラブル事案も少なかったということが原因ではないかと思う。

 そういう意味で、前回2015年にリタイアしたときのUTMBレース記録の方が、格段にレース中のテンションが高く、天気もよく景色も最高、それに加えて、不勉強からくるトラブルも頻発するなど、エピソードが盛りだくさんあったうえ、結末は制限時間切れでのリタイアという悲劇性もあって、物語としては面白かったし、リタイアショックに伴うやや投げやりで空虚な文章が、より共感の持てるリアルな物語の雰囲気を醸し出している気もしたりするなど、今回の完走記との比較で、いまさらながら再評価した次第でもある。(笑)

 完走しながら贅沢な話であるが、ゴールの喜び爆発のシーンがメインの筋書きの物語では自分自身からしても面白くなかったのだ。(笑)

 しかしである。

 私はこのUTMB完走が心底嬉しかった。
 他の人からUTMBを完走することはそれほど難しくないと言われようが、私にとって、この完走は最高に嬉しかったし、満足できるものだったのである。

 普段なら、照れくさくて小さな喜びを表す程度で淡々とゴールを駆け抜けて終わる私なのであるが、UTMBではゴール前から喜びを爆発させ、今までしたことも考えたこともない様なゴールパフォーマンスを無意識にしていたのだから、自分でも信じられないほど嬉しかったのだろうとしか言いようがないのである。

 さらに嬉しかったのは、この喜びを日本にいる家族や友人などと少なからず共有できたことである。
 何人もの人が、UTMBのネット中継を通して、私がチェックポイントを通過する様子や喜びいっぱいのゴールシーンの映像を日中・深夜に関わらずリアルタイム、あるいはそれに近いタイミングでネット観戦しながら応援してくれていたと聞き、嬉しさは倍増しました。

 このUTMBという私にとって特別な舞台が、みなさんとの絆をより一層結びつける役割を果たしてくれたのなら、それは私の人生において何物にも代えることのできない意義ある挑戦だったのだと思っています。
 今はただただ、私を温かく見守り支えてくださったすべての人に対し感謝の気持ちしかありません。

 ありがとうございました。

 ん?よくわからないな(笑)

 ひとつ前のブログ記事からすると、ブログを読まない人向けに本として形にし、喜びを共有したいというようなことが書かれております。(笑)

 その篤い思いは素晴らしいとは思うものの、これまで数多くの書籍を読んできた身としましては、冷静に評価すると将来売り出されることは・・・、ないでしょうな。このレベルでは(笑)

追記:
 写真が多く、しかも全編カラーの点は、ドキュメンタリーとしては、大いに評価できるところである。
出版関連
 ただ、終盤のゴールシーンでは、著者の写真のオンパレードな点はちょっといただけないが、UTMBという大会の盛り上がりという視点で見れば、それもドキュメントなんだと思えなくもないかな?(笑)

初めて自分の本を出版してみました!o(*^▽^*)o

UTMB完走記(2018)

UTMBリタイア顛末記(2015)

2018年7月29日 (日)

【書評】盤上の向日葵 柚月 裕子/著

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【内容紹介】
実業界の寵児で天才棋士――。 男は果たして殺人犯なのか! ?

さいたま市天木山山中で発見された白骨死体。唯一残された手がかりは初代菊水月作の名駒のみ。それから4ヶ月、叩き上げ刑事・石破と、かつて将棋を志した若手刑事・佐野は真冬の天童市に降り立つ。向かう先は、世紀の一戦が行われようとしている竜昇戦会場。果たしてその先で二人が目撃したものとは! ?
日本推理作家協会賞作家が描く、渾身の将棋ミステリー!

【メディア掲載レビュー】
埼玉県で発見された白骨死体と、一緒に埋められていた伝説の将棋駒の謎

各章の終わりに必ず、「次はどうなるんだ」と思わせる“引き"がある。だから一度本を開いたら、もう止まらない。柚月裕子のミステリー長篇『盤上の向日葵』は、謎解きの醍醐味に加えて様々な人間ドラマを巧みな構成で盛り込み、読み手の心をがっちりつかんで離さない。

平成六年、山形県天童市。注目の若手棋士同士による対局の会場に二人の刑事がやってくる。理由は何か。

約四か月前、埼玉県の山中で身元不明の白骨死体が発見された。一緒に埋められていたのは名匠作の伝説の将棋駒。かつて棋士を目指していた佐野巡査は、県警捜査一課のベテラン刑事、石破と組んで駒の持ち主をつきとめるべく、地べたを這うような捜査を進める。

同時に進行するのは昭和四十六年から始まる一人の少年、桂介の物語だ。長野県諏訪市に暮らす彼は幼いうちに母を亡くし、父親からは虐待を受けて育った。彼を気にかけていた元教師がその人並みならぬ将棋の才能に気づき、東京へ出てプロを目指すよう助言するが、桂介は父親の支配から逃れられない――。

刑事たちと少年、それぞれの物語がやがて冒頭の天童市の場面に繋がることは読者だって分かっている。だが、なぜそこに繋がるのかがなかなか見えてこない。死体となって発見されたのは誰か。なぜ名駒も一緒に埋められていたのか。それらと天才棋士には、どういう関係があるのか。少しずつ事実が明らかになるが、その情報の小出し感が心憎いまでに巧く、緊張感を持続させる。といっても先を急がせるのではなく、各章何気ないエピソードでこちらを引きこむ。虐待親から飴玉をもらった時に少年が見せる明るい表情。大阪の不動産屋の女性事務員の、なんともリアルなお喋り。かつて駒を所有していた人々が吐露する奥深い人生模様。もちろん、将棋の世界が丁寧に描かれるのも大きな魅力。プロ棋士だけでなく、金を賭ける真剣師たちの勝負も迫力満点だ。

それにしてもこの著者、推理作家協会賞受賞作の『孤狼の血』もそうだったが、頭は切れるものの態度が下品、という年配男を書くのがどうしてこんなに上手いのか。部下に対してワガママ三昧の叩き上げ刑事の石破、桂介と親しくなる裏社会の真剣師・東明重慶(しげよし)、そして息子の人生を搾取しようとする桂介の父親。彼らの生臭さが実感として伝わってくるからこそ、終盤にようやく明かされる真実には打ちのめされてしまう。得意技を炸裂させつつ、ここまでの重厚なドラマを完走させるとは。柚月裕子の凄みを改めて知る力作だ。

評者:瀧井 朝世(週刊文春 2017.10.26号掲載)から引用

【感想】
本屋大賞2018で2位だったのも納得の読み応えでした。今夏のUTMB参戦のための強化練習として、ジムで大汗を流しながら、そのインターバルに読みこんでしまいました。(笑)

私のみならず、上の評のとおり、文句なしに面白い。

将棋の対局のことをこと細かに書かれているが、将棋の知識は要らない。

しかし将棋は一般的には真面目なイメージ、例えば同じような盤上のゲームである麻雀とかに比べて遥かに真面目なゲームで真面目な人間がやっているイメージがあるが、将棋の世界にも真剣師とよばれる掛け将棋士がいて、まるで麻雀放浪記にように、生活はグダグダでも、勝負の世界に、まさに命を懸けてのめり込む姿がとても人間臭くて、そうした情景描写が本作品の人間臭さにもつながっている。

その人間臭さがほとんど最初から犯人が分かっているミステリーとしては異例の展開でありながら、ワクワクドキドキ感が読み進むにつれて、ますます醸成されていくのだから、実に不思議なミステリーであった。

何人も死ぬお話なのだが最終的に誰も悪い奴はいないんじゃないか?という人間臭い展開こそが本ミステリーの凄いところですかね。ぜひご一読を

2018年7月 1日 (日)

【書評】ヒトは「いじめ」をやめられない 中野 信子/著

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いじめについて、正しくない行為、恥ずべき行為、人としてやってはいけない行為というのが現代の世の常識である。

私も当然、いじめを是認するものではないが、いじめが無くならないもの事実である。

そこには何か根本的な要因があるというのが、私の見立てであった。

いじめとは人間に何か意味のある本能なのではないか?そういう疑念があって、いくつかの書籍を手にしたものの最初の一つである。

著者は脳科学者であり、「いじめは種を残すため、脳に組み込まれた機能」と結論付け、科学的見地から種々の論述が本著では述べられ、我が仮説のとおりの展開であった。

集団の輪を乱すもの、いや集団の利益を損なう者を共同して見つけ、排除することが、集団生活でしか生き延びることができなかった弱き動物のホモ・サピエンスが集団生活を維持するために必要な仲間とは、自己犠牲をいとわずにみんなのために力を尽くせる人なのです。

そのため、集団を壊すリスクを回避するために、自己犠牲に協力しないで、みなが出したリソース(資源)にただ乗りして利益を得ようとする人「フリーライダー」を排除することが集団の維持に必要不可欠なのである。

そのため人類が獲得した機能が、「裏切者検出モジュール」と「サンクション(制裁行動)」であり、それが発動されると、裏切者に暴力的制裁が発生するということなのです。

やっかいなのは、この機能はほとんどの人類が持っていて、それを抑制できるのは理性だけなのであるが、30歳未満ではその理性が成長しきっておらず、暴走してしまうということらしい。

これは例えるなら、花粉症と同じだと思った。

本来の機能が反応してはいけないものに反応しているというのが、花粉症であり、それは、まさに現代の「いじめ」も同じなのではないか。

そして、閉鎖的な社会であればあるほど制裁行動、すなわち「いじめ」が誘発されるということである。

そのため、いわゆるクラスというものが無い大学においては、いじめが発生しづらいのだが、これはひとえに閉鎖的社会であるクラスがないということが原因ということらしい。

花粉症と同じように、反応が起きないようにするということが、重要なのだと思う。

理性で乗り越えられるのだが、そうでない人もいる。難しいところだ。

しかし物理的な処置もあるということを知ることができたし、それを教育関係者も知ってもらえていれば良いのにと思いましたが、実際のところどうなんだろうか。まだ、定説のレベルにはなっていないから、無視されているのだろうか・・・

2018年2月28日 (水)

【書評】BUTTER 柚井 麻子/著

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【内容紹介】

木嶋佳苗事件から8年。獄中から溶け出す女の欲望が、すべてを搦め捕っていく――。男たちから次々に金を奪った末、三件の殺害容疑で逮捕された女、梶井真奈子、通称「カジマナ」。世間を賑わせたのは、彼女の決して若くも美しくもない容姿だった。週刊誌で働く30代の女性記者・里佳は、梶井への取材を重ねるうち、欲望に忠実な彼女の言動に振り回されるようになっていく。濃厚なコクと鮮烈な舌触りで著者の新境地を開く、圧倒的長編小説。

【感想】

タイトルとなっているバターのような濃厚で芳醇な小説で、気が付くと取り返しのつかない事態に陥るようなお話です。

内容紹介にあるように実際にあった木島佳苗事件をモチーフに、個々の人間のアイデンティティー(自身と他者から見た共通の自己認識)を根底から支える?ものとは何か?そしてその潜在意識はどうして形成されたのか?そこは本人には無自覚な部分が多くて、故にそれには思わぬ弱さがあるのではないか?というようなことを余すことなく描きだしている。

ご承知の方も多いと思うが、私はランニング、特に超長距離のトレイルランニングやウルトラマラソンに市民ランナーの立場、つまり遊びなのであるが、かなり真剣に取り組んでいる。

なので今やそれが私のアイデンティティーと化しているのである。つまり長い距離を走る人というのが私のアイデンティティーであることに異論はない。

しかしながら、その長い距離をなぜ走るのか?となると他者はもちろんのこと、自分自身もこれまであまり突き詰めて考えたことがなかった。

本著を読んで、まずそこが気になり始め、その結果、自己のアイデンティティーはなぜそうなのかをを深く考えることとなった。

その思考作業は、まるで硬質化した皮膚をゆっくりと剥いていくような、その下に隠れている生々しい柔らかな皮膚をさらけ出していくような作業であって、思わず「痛い!」と呻きつつ、その奥にまだ何かが刺さっているようで、さらに深く深く剥いで行くことを止められず、心がささくれ立つのを感じた。

と、自己のことについてはここらで終わりとしたい。

本題に戻ると、本小説は自分がアイデンティティーと思っていることを日常の多様なエピソードから紐解いていく。なかでも料理という様々な素材を組み合わせることで醸し出されることとなる濃厚な味わいも、人間に置き換えれば、各人のアイデンティティーもさまざまな経験が積み重なる中で、嫌な経験を隠し、自らが目指すべきアイデンティティーの確立のため、無意識のうちに努力する。

そういうお話になっていって、一生懸命、そこに触れられないようにくるんで過ごしていた日常が崩壊し、アイデンティティー自体も崩壊するというのを読んでいるこちらが、目の当たりにすると苦しくなって、小説とは関係のない読み手のアイデンティティーまで崩壊の危機に落ちいつのだから、実の恐ろしい小説でした。

たまには面倒がらずに自己のアイデンティティーを構成する思いをゼロから棚卸する勇気も必要なんだなあと思いました。

自らの弱さにたまにはきちんと向き合い、それを克服するがためのアイデンティティーであることをしっかり認識して、生きていこうと思いました。

という訳で、私はこれからも楽しく限界までしっかり走り続けます!

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