書籍・雑誌

2017年7月15日 (土)

【書評】今村均 信義を貫いた不敗の名将 葉治 英哉/著

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相当な歴史好きであると自任していて、しかも戦史を特に好む私であるが、私が生まれたときには、まだ存命されていたこの今村均という日本陸軍屈指の名将のことを私は知りませんでした。(実は日本軍の名将は世界最強である海軍に偏っているもので)

恐らく、現代の日本人はほとんどこの名将の事績はもちろんのこと、名前すらほとんど知らないのではないか。

この方が、名将と呼ぶにふさわしいのは、副題にすべてが表されている。

「信義を貫いた不敗の名将」

先の大戦、つまり75年前の中国やアメリカとの戦争の同時期に同じ程度の役割を担って、終戦時に生き残った陸海軍の首脳部の多くが戦犯として、死刑を執行されながら、彼はそうならなかった。

陸軍の将軍としての事績は、中国南寧での激闘やインドネシア攻略、さらにはラバウル方面軍司令官としては、物資が届かない中、10万の将兵で自給自足体制を築いていたことから、その反撃力に恐れをなして(一方、航空機や艦船がなく攻撃力がないので、封鎖だけして)米軍から攻撃を受けないで、終戦まで終えたのである。

当然、これだけ戦争の指揮を執ったわけで、多くの敵、人民に被害を生じさせたわけで、それを強引に戦勝国が裁くという極東軍事裁判でありながら、ジャワ総督時代の仁慈の軍政は、大東亜共栄圏という理想を具現化しただけと本人は謙遜しているのだが、実際にインドネシアを植民地としてのみ、彼らを抑圧させて支配していたオランダ支配の時代より、軍政とはいえ、インドネシア原住民の自主自立、最終的には彼らのオランダからの独立を前提とした軍政は、日本の本国から不満が出て、最終的に左遷気味に前線に飛ばされるのであるから、筋金入りの名将であろう。

戦犯となっても将軍なので東京で収監されていながら、直訴して、彼の部下たちが収容されているインドネシアやオーストラリアに収監されるようにして、現地での裁判を自ら可能な限り戦い抜いて、多くの部下を不当な裁判から救うあたりは、本当に当時の日本軍人なのか?というほどである。

何のために自分が戦っているのか?生きているのか?本当にそれを理解し、最大限の努力された、彼の生き方は、家が貧乏で、陸軍学校にしか行くことができなかった境遇の時代でも、これからも輝き続けるに相応しい事績であると思った。

まさに「信義を貫いた不敗の名将」であった。

忌まわしい時代を歩まざるを得なかった中で、素晴らしい事績を残しながら、現代では無名の扱いとなっている今村均さんであるが、是非とも今後も尊敬すべき日本人として語り継いでいただきたい素晴らしい大先輩であります。

何のために君は職務を遂行しているのか?大先輩に聞かれたときに答えられるような生き様、心に刻みこんで、日々精進しなければと思いました。

2017年7月13日 (木)

【書評】羊と鋼の森 宮下奈都/著

Hituji

知らないというのは、素晴らしいことに出会える最大の要素ということをまたも気付かせてもらえた。
言い換えると、学習能力がないおかげで、自らが陥りがちな勝手な期待感というか予定調和という妄想に縛られることなく、無垢な心で感動させていただいた。

この本がなぜ私の手にあるのか?忘れたころ私の手元に届くので、どういう感じの本だったかすら、予断となるべき情報が完全に欠落している状態で読み始めるのである。

「羊と鋼の森」というタイトルからイメージするのは、ファンタジーの世界のお話と勝手に推測していた。

しかし、その予想は完全に外れていた。

羊とは、ピアノの音を出すハンマーに巻かれている羊の毛のことで、鋼もピアノのパーツで、ピアノのことを指しているのだ。森とは、精霊が住む世界という意味だから、タイトルが意味するのは「ピアノの世界」ということなのだろう。

本著は、ピアノの調律師を主人公とする成長の物語である。

音楽的な素養がない私でも分にピアノとその調律という、私にとってある意味、異次元のお話しながら、素晴らしいピアノの音色は、音楽的素養がない人の心にも染み渡るように届くかのごとく、私の心の中にすうーっと入ってくれたのであった。

ひとえに著者の見事な文体のおかげである。

文体と言えば、本著の中の主人公である新米調律師が尊敬する正解的な調律師が主人公に「どんな音を目指していますか」と質問したことに対して、こう答えていたシーンが印象的でした。

「原民喜がこう言っています」
「明るく静かに澄んで懐かしい文体、少し甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」
「原民喜が、こんな文体が憧れている、と書いているのですが、しびれました。私の理想とする音をそのまま表してくれていると感じました」

まるで、著者自らが本著を紡ぐために目指している自らの理想を語っているかのようであり、そしてそれが私ごとき、平凡な一読者からすれば、見事に実現されて、こちらにきちんと届いていると思ってしまいました。

読後の清涼感というか、心が丸ごと清められるような感じは、日常でささくれ立つことの多い、自己中で未熟な私をまるで成長させてくれたかのような、何か優しい気持ちで満ち溢れて、大らかで心安らかな気持ちにまで昇華させていただきました。

一読をお奨めする素晴らしくて凄い小説でございました。

【内容紹介】
史上初! 堂々の三冠受賞!
・2016年 本屋大賞
・2016年 キノベス! 第1位
・2015年 ブランチブックアワード大賞

ゆるされている。世界と調和している。
それがどんなに素晴らしいことか。
言葉で伝えきれないなら、音で表せるようになればいい。

「才能があるから生きていくんじゃない。そんなもの、あったって、なくたって、生きていくんだ。あるのかないのかわからない、そんなものにふりまわされるのはごめんだ。もっと確かなものを、この手で探り当てていくしかない。(本文より)」

ピアノの調律に魅せられた一人の青年。
彼が調律師として、人として成長する姿を温かく静謐な筆致で綴った、祝福に満ちた長編小説。

【あらすじ】
ゆるされている。世界と調和している。それがどんなに素晴らしいことか。言葉で伝えきれないなら、音で表せるようになればいい。ピアノの調律に魅せられた一人の青年。彼が調律師として、人として成長する姿を温かく静謐な筆致で綴った、祝福に満ちた長編小説。

【書評】ジョコビッチの生まれ変わる食事 ノバク・ジョコビッチ/著 タカ大丸/訳

Jyoko

グルテンフリーのお話の本であるが、特筆すべきは、グルテンフリーを自らが実践し、世界一のテニスプレーヤーとなっている現役トッププレーヤー本人であるジョコビッチが書いているというところであろう。

その確かな実績を残している本人から「あなたの人生を激変させる14日間プログラム」と提示されるのだから、その衝撃度は大きい。

グルテンとは小麦などの麦に含まれるたんぱく質のことで、これこそがモチモチとした美味しさの源泉であり、世界中の人々が好んでいる物質なのだが、現代社会においては、アレルギー源の一つ?(不耐性物質の方が正確だと思うが)となっているらしい。

アレルギーの要因は、恐らく2つあって、一つはアレルギー物質の長期間の大量摂取、もう一つは、自己免疫の暴走であろう。

かくいう私も乳糖不耐性であり、2013年のスパルタスロン出走に向けて、人生最高レベルのトレーニングを半年くらいしたのだが、たんぱく質摂取のため、牛乳をぐいぐい飲んでいたのだが、どうにもお腹の調子が悪いのが続いていて、いろいろ調べて、思い当たったのが、乳糖不耐性であった。(不耐性とはアレルギーとは違って、体質的に体内に取り込むことができないということ。アルコールの下戸も同じであろう。)

アルコール不耐性の場合、アセトアルデヒドという体内に有害物質が滞留するため、問題となるが、乳糖不耐性では、乳糖が分解処理できず、腸内に溜るため、お腹が緩んでしまうのであり、致命的でないが、体調万全にならない以上、自己最高パフォーマンスを求める人には問題であろう。

乳糖不耐性については、日本には、アカディ牛乳があって、私も愛飲しており、牛乳問題は無事解決できたが、ときどきお腹が緩くなるところから、まだなにか不耐性な物質があるのかもしれない。

その有力候補は、グルテンの可能性は高いと思っているので、興味深く読んだのであるが、グルテンフリーは庶民にとってはかなり難しい試みだと思った。

グルテンは小麦粉はもちろん、ライ麦や大麦などに含まれており、それらを使っている食品があまりに多様すぎるからだ。

パン、パスタ、うどん、ピザ、お菓子としても、ケーキ、クッキー、クラッカー、さらにはビールまでもである。

ジョコビッチは、まずはグルテンフリーをやってみろというし、訳者は日本食は小麦粉を使っていないものが多いから日本人向きだと言うが、私の場合、もっともパフォーマンスを出したいときに、グルテンフリーができないので、やはり遣り甲斐がないので諦めることにする。

ジョコビッチはテニスの試合に、自分で自身の食事をコントロールできるが、長い距離を走るウルトラマラソンやトレイルランニングでは、プロであれば個人のサポートを受けられるかもしれないが、私のような一般レベルのランナーは主催者が用意するジェネラルサービスでしか補給ができなくて、こそには普通にパンやパスタなどグルテンの食品だらけなのが一般的である。

フルマラソンを超える距離では、レース中のカロリー摂取は必須であり、自分で持ち運べばよいのかもしれないが、重量が嵩張って、250キロとか40時間以上持って走らなければならない超超距離レースでは、自分で持ち運ぶのは、むしろ完走を阻害する要因となるので、正直得策ではない。

結局、グルテンフリーを実行すればするほど、スギ花粉症でもご存じのように、過敏症となって、アレルギー体質は強化されるので、結局、バランスの良い食事を心がけるのがレースではグルテンフリーを実行できない私にとっては、最も合理的な対処だと思いました。

一方、本著において、これは役立ったと思ったのは、第7章の「誰でもできる簡単フィットネスプラン」だ。

ここに書かれているストレッチとフォームローリングというマッサージは、一般人でも実行可能な話であり、非常に役立った。

2017年6月 8日 (木)

【書評】幸せになる勇気 岸見一郎・古賀史健/著

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それにしても、タイトルは実に魅力的である。

誰もが目指すであろう「幸せ」を自ら手に入れられることを予感させる、見事なタイトルの本である。

副題は「自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ」

本著のあらすじというか構成は、3年前に哲人からアドラー心理学の教えを受け、それを現実の世界、教師として生徒に対して実践を試みたが、うまくいかなかった青年が、アドラー心理学の欺瞞を暴こうと哲人に対して問答形式でアドラー心理学とはないかを表している本である。
アラフィフになってもこのような熱量の高い、いわゆる自己啓発本を読んで、その感想を書こうというのであるが、まずは本著からの印象深い文章を、抜き出してみたい。とにかく大量に抜きだすこととなったのである、お許しいただきたい(笑)

まずは本書の位置づけを簡単に表している「あとがき」の一節から

【あとがき】
前作「嫌われる勇気」はアドラー心理学の存在を知り、アドラーの思想を概観するための、いわば「地図」のような一冊でした。
他方、本書「幸せになる勇気」は、アドラーの思想を実践し、幸福となる生を歩んでいくための「コンパス」となる一冊です。
前作で提示した目標に向かって、どのように進んでいけばいいのかを示す、行動指針と言い換えてもいいでしょう。

次に本著の印象的な単語とその説明文の形式で抜きだしてみます。

●課題の分離
 人生のあらゆる物事について「これは誰の課題なのか?」という観点から、「自分の課題」と「他者の課題」を切り分けて考える。
 その課題が誰の課題であるのか見分ける方法は「その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか?」

教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」

●尊敬
●共同体感覚

尊敬の第一歩は、「他者の関心事」に関心を寄せる

●過去は存在しない

人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「いまのわたし」の正当性を証明すべく、自由自在に書き換えられていくのです。
人間の記憶は、いまの「目的」に反する出来事は消去するのです。

●カウンセリングの三角柱
「悪いあの人」「かわいそうなわたし」「これからどうするか」

●人間の問題行動の5段階
1 称賛の要求
2 注目喚起
3 権力争い
4 復讐
5 無能の証明

第1段階 称賛の要求
 目的はあくまでも「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば「共同体のなかで特権的な地位を得ること」
 「いいこと」をしているのではなく、ただ「ほめられること」をしているだけ
 「ほめるてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身に付けていくのです。

第2段階 注目喚起
 称賛されないなどの場合、人は「ほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考える。
 多くは「いたずら」によって、注目を得ようとするだろうし、ときには「できない子」として振る舞うことで注目を集め、特別な地位を得ようとするわけである。

第3段階 権力争い
 誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することで、自らの力を誇示し、特権的な地位を得ようとする。
 その戦いは、「反抗」であったり、「不従順」である。
 対処方法は彼らの挑発に乗らず、すぐさま彼らの権力争いのコートから退場する。

4 復讐
 権力争いに敗北した人は、次はかけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復讐をする。
 「称賛の要求」「注目喚起」「権力争い」はすべて「もっと私を尊重してほしい」という愛を乞う気持ちの表れである。
 そうした愛の希求がかなわないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになる。
 私を愛してくれないのなら、いっそ憎んでくれ。憎悪という感情の中で、わたしに注目してくれと考えるようになる。
 「権力争い」では正面から正々堂々と戦いを挑んでくるが、「復讐」では、ひたすら「相手が嫌がること」を繰り返す。
 ストーカー行為は、典型的な復讐である。また、自傷行為や引きこもりも復讐の一環である。

5 無能の証明
 「特別な存在」として、愛されることはもちろん、憎むこともしてもらえないと、「これ以上私に期待しないでくれ」と思い、「無能の証明」につながる。
 これ以上の絶望を経験しないため、「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。
 あからさまな愚者を演じ、なにごとにも無気力になるなど、自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手を使って「証明」しようとする。
 愚者を演じるうちに何らかの精神疾患を疑われることもあるほど、自らにブレーキを掛ける。

●所属感
 人間の抱える最も根源的な欲求。つまり孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。
 問題行動のすべては、「共同体のなかに特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている。

 問題行動は、叱られることを含んだ上での行動であり、叱責されることは彼らの望むところです。

●暴力
 暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段である。
 暴力とまでいかなくとも、声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして、相手を威圧し、自分の主張を押し通そうとする行為もコストの低い「暴力的」なコミュニケーションである。 

われわれは「他者の指示」を仰いで生きていたほうが、楽なのです。

●貢献感
 幸福の本質は「貢献感」

●承認欲求
 ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最期の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。
 その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになる。
 他者からの承認を求めるのではなく、自らの意思で、自らを承認するしかない。
 そのためには「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのである。
 「人と違うこと」ばかり際立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他ならない。

●人生のタスク
1 仕事 2 交友 3 愛

●苦悩
 すべての悩みは、対人関係の悩みである。またすべての喜びもまた、対人関係の喜びである。

●信用と信頼の違い
 信用とは、相手のことを条件つきで信じること
 信頼とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと
 「その人を信じる」自分を信じる、つまり自己信頼あっての他者信頼である。

 仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係とは「信頼」の関係である。

 利己心を追求した先に、「他者貢献」がある。

●われわれ人間は、わかり合えない存在だからこそ、信じるしかない。

●人間はひとりでは生きていけない
 人間はただ群れをつくったのではなく、「分業」という画期的な働き方を手に入れた。
 他者と「分業」するためには、その人のことを信じなければならない。疑っている相手とは、協力することができない。

●正義に酔いしれた人は、自分以外の価値観を認めることができず、果てには「正義の介入」へと踏み出します。

●汝の隣人を、汝みずからの如くに愛せよ
 自分を愛することができなければ、他者を愛することもできない。自分を信じることができなければ、他者を信じることもできない。
 自己中心的な人は「自分のことが好き」だから、自分ばかり見ているのではありません。実相はまったく逆で、ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安にさらされているからこそ、自分にしか関心が向かないのです。

●まずは自分自身が争いから解放されなければならない。自分を棚に上げて全体の話をするのではなく、全体の一部である自分が、最初の一歩を踏み出すのである。先の結果を憂うのではなく、あなたができることは、いちばん身近な人々に信頼を寄せること、それだけです。

●落ちる愛は「所有欲」や「征服欲」となんら変わらない。恋に落ちるのは、本質的に物欲と同じである。

●愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。

●愛の正体
 不可分なる「わたしたちの幸せ」を築きあ上げること
 人生のすべての選択において、「わたし」の幸せを優先させず、「あなた」の幸せだけに満足しない。「わたしたち」の二人が幸せでなければ意味がない。「ふたりで成し遂げる課題」とは、そういうものである。

●人生の主語
 われわれは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。
 しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった主語は、「わたしたち」の変わります。
 幸福を手にれるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。

●自立
 すべての人間は、過剰なほどの「自己中心性」から出発する。そうでなくては生きていけない。
 しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。
 つまり、自立とは「自己中心性からの脱却」なのである。

●愛、自立、共同体感覚
 人間は変わることができる。愛は「わたし」だった人生の主語を、「わたしたち」に変える。
 われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、ほんとうの意味での世界を受け入れるのである。
 たったふたりからはじまった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまで、その範囲を広げていくのである。それが共同体感覚である。

●愛されるためのライフスタイル
 われわれはみな、命の直結した生存戦略として、「愛されるライフスタイル」を選択する。
 それは、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるかを模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイルなのです。
 あなた自身が採用しているライフスタイルも子供時代の生存戦略に根ざした「いかにすれば愛されるか」が基準となっているのではないか?
 あなたが隠し持つ子供時代のライフスタイルを直視し、刷新しなければならない。愛してくれる誰かが現れるのを待っていてはいけません。
 

誰かを愛するということは、たんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。

運命とは自らの手で作り上げるもの

運命の主人

われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。

「愛し、自立し、人生を選べ」

われわれはアドラーの思想を大切にするからこそ、それを更新していかなければならない。
原理主義者になってはならない。これはあたらしい時代に生きる人間に託された使命なのです。

われわれに与えられた時間は有限である以上、すべての対人関係は「別れ」を前提に成り立っています。
現実としてわれわれは、別れるために出会うのです。
だとすれば、われわれにできることはひとつでしょう。
すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。
それだけです。

【感想】
アドラー心理学なるものを私は知らなかった。
ベストセラーとなった前作もタイトルは知っていたが、読んでいなかったのに、その続編を読むのだから、我ながら、大したものだ。(笑)

本著は、ノンフィクションかと思うような哲学問答でアドラー心理学のエッセンスがあたかも解説されるがごとく進むため、実に理解がしやすい形となっている。

その結果、本書を読んだ私の印象は、「アドラー心理学、恐るべし」である。

アドラー心理学の理論は、とにかく論理的であるとともに、哲学と呼びにふさわしい、珠玉の名言というにふさわしい文章が、上のように、無数にちりばめられているのである。

特に問題行動の5段階理論は、私の経験上、完璧な理論だと思いましたよ。

もし私が若ければ、アドラー心理学にまさに心酔したところであろう。

しかし、残念ながら50も過ぎている私は、この熱量の高い啓発本といえども、なかなか、それだけでほだされることは無いのだ。(笑)

宗教的ともいえるような清廉潔白な愛の理論や深い思索から導き出された人間の善性に訴えかけるような考察と問答に圧倒されるのであるが、競争原理を否定している部分がどうしても気に入らないのである。

人間はいかに崇高な存在であるとはいえ、所詮は生物であり、ゆえに生存競争を忌避することはできないであろう。人間独自の分業社会は競争社会でなく共同社会でるとの論理には一理あるとは思うが、生存競争の際たる生殖活動については、共同だの分業だのが入り込む余地のない、異性にとって一番の存在となるという、まさに競争に勝ち抜く以外に、生殖を営むことはできないわけで、これはアドラー主義者といえども異論がないはずである。

そのあたりは、遺伝子やバイオテクノロジーといった今は誰でも知っている科学的知識が欠如していた時代の学者さんによる限界だったのかもしれません。

しかしながら、珠玉の名言に溢れている本著は、人生の指針として、読むに値する十分な内容のある名著でありますので、最終的には絶対的にお勧めいたします。m(__)m

2017年3月14日 (火)

【書評】結果が出せる「心拍トレーニング」 中野ジェームズ修一/著

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サブタイトル「簡単!ムダなし! 身体を変えるメソッド集」

ランニング歴は10年、そこそこの数の大会に出場してはいるし、ランニングの師匠もいて、月間走行距離が700kmを超えたこともあるが、誰かに教えてもらったことはない。

特に困っていなかったので、ここまでやってきたのだが、寄る年波には勝てないというか、体に痛みが出るようになってきたところで、中野ジェームズ修一さんという名トレーナーさんがいるという情報を得た。

そこで、本著作を読んだという訳である。

本著には、いろいろなことが書かれているが、何でも知っていないと気が済まなくて、しかもそれが自分の理屈に合うまで、とことん調べる性質なので、実のところ本著の理論的な部分はほとんど知識としては知っていた。

が、新しい知見というか、知ってたけどやっていなかったことが、いくつもあったので備忘録的にメモしたい。

●運動前はストレッチより、ウォームアップ
  筋肉が冷えた状態でのストレッチは筋繊維を傷める。
  運動前にはストレッチでなくウォームアップ

●脳の疲労回復には、軽い運動
  だから仕事の後の帰宅ランすると頭がすっきりするのか。

●食事で十分なたんぱく質が摂れればプロテインは必要ない
  実行済み

●トレッドミルで走るときには傾斜を付ける
  トレッドミルが平らな状態は、屋外のゆるやかな下り坂に相当
  1.5%から2%の傾斜で、やっと屋外の平坦な道に相当 → これは次から実行しよう

●可動域を確保しつつ筋力を向上させること
  マシントレーニングで筋肉の断面積を増やすことに集中し過ぎると、関節の可動域が狭くなる。

●腹横筋を鍛えて内臓の揺れを抑える
  腹筋運動では腹直筋が鍛えられるだけなので、プランクで腹横筋を鍛えること

●こまめにストレッチ
  長時間のデスクワークには動的ストレッチ(首や肩を回す、腰をひねる等)で血流促進

【感想】
 名著「BORN TO RUN」のストレッチ不要を心の拠り所に、ストレッチをしないで、これまでランニング人生を続けてきたが、もはや身体が持たなくなってきた。
 なので、主治医や本著などの助言に素直に従うことにする。
 実際、ストレッチの効果は、出てきている。
 あと5年は、今の体力を維持し、故障しないで、走って、走って、走りまくりたいから(笑)

2017年3月 8日 (水)

【書評】ローマ法王に米を食べさせた男 高野誠鮮/著

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副題は「過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?」

著者は、羽咋市役所の職員、つまり地方公務員である。
羽咋は石川県にあって、能登半島の付け根にある地方都市である。
石川県は妻の故郷であり、何度も通過したことがある場所であるのだが、ローマ法王が食べた米があるとは知らなかった。

いやいや、話がそれたが、この著者の方がすごいと思ったのは、スーパー公務員と言われ始めたのが、50歳を過ぎてからであるということ。

どうやら地方の市役所では目立ち過ぎていたのか、出る杭は打たれる状態であり、左遷気味に48歳で農林水産課に飛ばされたところからこの話は始まる。

とにかくこの方の発想は、ユニークを通り越して、型破りなのである。

普通なら予算は1円でも多い方が良いのに、たった60万円の予算で過疎の村を再生するプロジェクトを立ち上げたり、そしてその低予算でのプロジェクト立ち上げの代わりに市長に談判して市役所内では会議を開くことなく、自分だけで意思決定できるようにしたりと、おおよそ市役所らしくない、民主的なプロセスを無視した、それゆえに強引に物事が進められる仕組みを手に入れ、そこから自身の大胆な発想を次々と実行し、その中に本著のタイトルとなったローマ法王に米を献上するとか、ありとあらゆる公務員の仕事とは思えない斬新なアプローチで最終的に過疎の村の再生を成し遂げているのである。

しかも、そんな型破りな手法だけでなく、執念深いともいえるほどの粘り強さもあるのもこの方のすごいところだ。

例えば、反対派で凝り固まった農村の意識を変えるため、反対意見しか出ないのに、毎週のように村人を集めては集会を開いて、こんこんと話を聞き、丁寧に説明を行い、それで徐々に皆を納得させたとか、ありとあらゆる海外メディアに扱ってもらえるかどうかも分からないような地方のニュースを伝えまくって、海外からの取材で国内のマスメディアにニュースで扱ってもらえるようにしたりとか、その発想の自由さ、いや奇想天外さとそれをやり続けるパワフルさは、他に例をみないといってよいだろう。

もうアラフィフだからと、最近はすっかり消極的・保身的な私なんぞ、恥ずかしくて、本著の書評など書ける立場ではないのであるが、素直に感動したし、パワーをもらえた気がしたので、恥を顧みず、記事掲載した次第である。

とにかく、今度、金沢帰省したら、羽咋の神子原地区に寄ってみようっと。(ローマ法王が食べたお米、まだ買えるかな?)

2017年3月 2日 (木)

【電子書籍】 恥をかいてもやめられない59才ひとり旅

恥をかいてもやめられない59才ひとり旅
9年前にトルコ旅行のツアーでご一緒して、とても優しく接していただき、そして飲まない私が、毎晩一緒に宴会していた「にしき」さんから、8年半ぶりにメールが来ていた。
宣伝がてらご紹介します。

お友達様 各位

電子書籍出版のご案内
久しくご無沙汰しています。
以前に世界遺産を訪ねた旅行で、現地で写真を取りながらメモを残し、帰国後自宅にて、毎朝メモや写真で旅を思い出しました。そして現地で購入した、小額な日本語ガイドブックを資料にして、旅日記を書き綴りました。
それらは別々に、10冊程度の旅日記として、残していました。
ですがこの4年間は、雑用が重なり多忙で、世界遺産への旅は出来ない状態でした。
いま、小生はこの5月に74歳になるところですが、再び世界遺産への旅は忘れずに、また旅によって、新しい友達が出来ることも楽しみです。
そんな折、地元佐野商工会議所の電子出版のセミナーがありました。興味本位に参加したところ、自己満足の世界の延長に過ぎないのですが、せっかくの旅日記や写真を整理して、公に出してみようと決断し、年甲斐もなく電子出版塾で、勉強することになりました。
不慣れな、パソコン通信操作でしたが月1回、4ヶ月間の4回のセミナーでした。
そしてやっと、2月28日に完成し無事に、Amazon Kindle (電子出版) にデーターアップすることができました。発行は3月3日で、今日から予約も出来ます。

書籍名は
「恥をかいてもやめられない59才ひとり旅」世界遺産アメリカ編 です。
著者名 にしき 発行単価 299円

ご興味がおありでしたら、ぜひご笑読してみてください。
ご存知かと思いますが、これは紙の本ではありません。持ち運びの出来るタブレット、スマートホン、パソコンでの映像読書です。

1、Amazon でのネット販売のカード決済環境が必要です。
2、インターネット画面で、Amazon Kindle (電子出版) を検索します。
3、書籍名欄に 恥をかいてもやめられない59才ひとり旅 を打込みます。
4、1−Click で今すぐ購入をタップしますと購入できます。

出来れば予約または、発売日3月3日の購入部数が多ければ、掲載が上位になりますので、宜しくお願い致します。

URL: Amazonネット販売サイト

【ひと言】
 もしご興味があるようでしたら、ぜひともご購入下さい。とても心優しくて、しかも愉快なおじさんでしたから、面白い本になっていると思いますのでよろしくお願いいたします。
 それからトルコ旅行のときの出してくれないかな、毎晩飲んでた写真で写ってそうだし(笑)

2017年2月27日 (月)

【書評】九十三歳の関ケ原 弓大将大島光義 近衛龍春/著

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歴史好きを自称している私は、一般的な歴史好きと同じで、戦国から安土桃山時代と幕末が好きで、それなりに知っているつもりであったが、大島光義なる1万石を超える大名のことを知らなかった。
そしてこの大島光義は、弓の名手で、弓の戦果だけで大名にまでなった鉄砲全盛の戦国時代では稀有な存在であったようだ。

齋藤家が織田信長に圧される段階で、60歳の還暦を超えるという老齢で、信長に主人が変わって、しかも時代遅れとなりつつある弓に拘るという信念を貫いて、戦働きに出る、つまり現役を続けて、信長・秀吉・家康という天下人に順々に仕えて、きちんと成果をあげていくその姿は、とてつもなくカッコいい生き様で、読んでいて感動しました。

アマゾンの感想欄にもそのあたりのことが何人も書いておられた。

「鉄砲が流行りはじめてきたが、目もくれず、弓で生涯、継続は力なりを教えてくれた。
たとえ時代遅れと言われることでも、信念を持って貫けば、必ず報われる。
一芸あればどんな時代でも生き残ることができる。」(ある読者の感想)

結局、93歳で関ケ原の戦いには参加できなかったのであるが、その近くで行われた大垣城包囲には、地元武将でもあり参加したというのは歴史的事実なのであろうし、納得のお話であった。

また、本能寺の変や関が原の戦いにおける各武将の心理状態などの描写は、納得の内容であり、歴史好きの私を十分に唸らせる内容でした。

ずばり歴史小説として十分に面白かったです。

追記1:
 実は私、高校時代は弓道部で、自慢するようでなんですが、そこそこ弓の名手でありました。(県大会3位入賞や市の大会での優勝実績あり)

 なので、本作品で弓で矢を射る描写はなかなかのものだと感心するとともに、著者は矢を射ったことはないというのも感じてしまいました。(人殺ししたことなくても、人を殺す描写をするのが小説家の仕事ですから、糾弾されるものでなく普通なのことはわかっております。なので、弓を射る描写はこれまで読んだ小説の中では秀逸のできでした。)

 ところで、一生懸命に努力することは大事なことであるが、時代遅れを自身の技量だけで乗り越えようとするのは、必ずしも正しい姿ではないのではないか?というのも私の生き様から導き出した感想でもあります。

 かつて、日本はオリンピックのアーチェリー競技に和弓で参加したことがあった。和弓は道具の技術的革新を行わなかったため、当たるようにできていないので、当然、進化を続けた洋弓に惨敗した。

 当たらない弓を修練して取得した技量と精神力で当たるようにするのが弓道であり、それこそが伝統であるのだが、オリンピック競技というグローバルなものにはならなかったという事実も決して忘れてはならないと思いました。

追記2:
 ウィキペディアの注釈に以下のような記述があった。
 一説には大永元年(1521年)生まれともいう(富加町史編集委員会 「大島光義」『富加町史』下巻 通史編)

 何の研究もしていない私が論じるのは正におこがましいが、高齢者と弓をそこそこ知っている身としては、関ケ原に近接する大垣城攻めに参戦した年齢が93歳というのはあまりに高齢過ぎて、実際のところ、一説である80歳というのが妥当な気がします。
 その大きな理由の一つとしては、当時の武家として大事な嫡男誕生が、93歳説だと52歳での誕生となる。これはいくらなんでも遅すぎるのではないか?
 いつ死んでもおかしくない戦国時代に40歳を過ぎて後継ぎがいない状態はとても信じられない。仮に実子が生まれなくても養子を取っておくのが普通であろう。
 ウィキペディアを見る前は、実は20歳くらい、さば読んでいるのではないか?とすら思っていたくらいであるが、一説をきちんと記録してくれている日本人らしい生真面目さ、とても誇りに思います。

2017年2月 4日 (土)

【絶賛】五郎治殿御始末 浅田次郎/著

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 男の生き様を書かせたら、右に出る者がいないと思っている浅田次郎さんの時代短編集である。

 時代ものではあるが、比較的新しい幕末維新直後の明治初期という近代の話ばかりで、歴史的な有名人は出てこない地味な話なのですが、これが見事なまでに全編珠玉の名作であった。

全短編六作品を私の主観を交えて簡単に紹介したい。

●椿寺まで
 最後まで武士らしく戦い瀕死の重傷を負った幕吏ながら、明治では商人として維新の後始末として、同僚の遺児を密かに育てているという目頭が熱くなるお話

●函館証文
 私にとっての短編時代小説の最高傑作

●西を向く侍
 私にとっての短編時代小説の最高傑作

●遠い砲音
 私にとっての短編時代小説の最高傑作

●柘榴坂の仇討
 私にとっての短編時代小説の最高傑作

●五郎治殿後始末
 私にとっての短編時代小説の最高傑作

 頭がおかしくなったのではないかと訝しむかもしれませんが、私の中での最高傑作が、本短編集で読み進める毎に5回も更新されたのです。

この短編集で描かれた日本の武士道とは、明治維新によって、武士という特権を失って、平民となった新しい世の中において、真の男として、その真価が問われたということを、様々な種類のその後の生き様をもって、まさに見事なまでにあぶりだしてくれているのです。

巻末の言葉が端的に本作品のエッセンスを表していたので引用します。

男の始末とは、そういうものでなければならぬ。決して逃げず、後戻りせず、能う限りの最善の方法で、すべての始末をつけねばならぬ。幕末維新の激動期、自らの誇りをかけ、千年続いた武士の時代の幕を引いた、侍たちの物語。表題作ほか全六編。(解説・磯田道史)

追記:
 ここのところのくそ忙しさに心がささくれ立っていたのだが、この本を読んで、そんな私の小さくみみっちい生き様が恥ずかしくなりましたわ。(笑)

追記2:
 「ごろうじどのおしまつ」というのがこの本のタイトル。読めば納得のタイトルなのだが、このタイトルでは絶対に大ヒットはしないよなア・・・。

2017年2月 3日 (金)

【書評】まっぷたつの先生 木村紅美/著

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今年我が家に届いた年賀状の中に、中学一年生の時の担任の池田先生からの年賀状があった。ここ2,3年、先生から年賀状をいただいていなくて、今年は遠慮して出さなかったのだが、元気な知らせに驚くとともに、嬉しくなった。
池田先生は、英語の先生で、その時すでに、学年主任だったし、容貌体形からも中年だったし、すでに40年経過していることから、御年80歳は優に超えているはずで、ひょっとすると90歳を超えているかもしれない。
そして、先生たちとの交流、といっても年賀状だけなのだが、それすらすでに私の場合は池田先生だけとなっている。

その要因を探れば、まず若い先生が私の担任にならなかったこと、それ以上に、私が、個性の少ない、印象深くない生徒であったということ、さらには小中高と過ごしたのは遥か四国の松山で、いまや同級生との交流すら、顔を合わせるのは、数年に1回程度なので、この現状はある意味仕方ないだろう。

さて、書評なのに、こんな私の話をしているのは、本著のストーリーが、担任の先生と生徒との、15年から20年経過した後の、SNSを通じての交流の再開をきっかけとして、学生時代のそれぞれの躓きを振り返りながら、その呪縛からの新たなる旅立ちというお話だったからである。

アラ50となった女性2人の先生(ひとりは現役の先生でないのだが)とその教え子2名(それぞれ年齢も学校も違い面識はない)が現実社会では正社員と派遣社員の関係が生じているものの、それぞれはそうしたつながりを知ることなく、しかしながら現実社会でのそれぞれの行き詰まりは、小学校時代の先生との関わり(片方は良い思い出、片方は悪い思い出)がその原因と思いつつ、そのわだかまりが、最後には溶け始めていくというようなお話でした。

最後に大団円があるかと思っていたら、そこは人間関係は希薄だがネット関係では繋がり続けられるという現代社会らしい、現実社会でのすれ違いで終わるあたりは、もはやアラ50の私では思い描けない感性であった。(著者は私より一回り若い)

現実社会で顔と顔を突き合わせての関係とネットでの距離・年齢・時間を超えた関係が交錯しながら展開が進むこの小説は、現代社会を歪なく、ありのままに描いていると感じたし、それを面白い小説に昇華させている点で、今まさに旬な、お薦めの小説でありましたので、ご紹介した次第です。

ご興味が出ましたら、是非ともご一読のほど m(__)m

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