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2017年6月 8日 (木)

【書評】幸せになる勇気 岸見一郎・古賀史健/著

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それにしても、タイトルは実に魅力的である。

誰もが目指すであろう「幸せ」を自ら手に入れられることを予感させる、見事なタイトルの本である。

副題は「自己啓発の源流「アドラー」の教えⅡ」

本著のあらすじというか構成は、3年前に哲人からアドラー心理学の教えを受け、それを現実の世界、教師として生徒に対して実践を試みたが、うまくいかなかった青年が、アドラー心理学の欺瞞を暴こうと哲人に対して問答形式でアドラー心理学とはないかを表している本である。
アラフィフになってもこのような熱量の高い、いわゆる自己啓発本を読んで、その感想を書こうというのであるが、まずは本著からの印象深い文章を、抜き出してみたい。とにかく大量に抜きだすこととなったのである、お許しいただきたい(笑)

まずは本書の位置づけを簡単に表している「あとがき」の一節から

【あとがき】
前作「嫌われる勇気」はアドラー心理学の存在を知り、アドラーの思想を概観するための、いわば「地図」のような一冊でした。
他方、本書「幸せになる勇気」は、アドラーの思想を実践し、幸福となる生を歩んでいくための「コンパス」となる一冊です。
前作で提示した目標に向かって、どのように進んでいけばいいのかを示す、行動指針と言い換えてもいいでしょう。

次に本著の印象的な単語とその説明文の形式で抜きだしてみます。

●課題の分離
 人生のあらゆる物事について「これは誰の課題なのか?」という観点から、「自分の課題」と「他者の課題」を切り分けて考える。
 その課題が誰の課題であるのか見分ける方法は「その選択によってもたらされる結末を、最終的に引き受けるのは誰なのか?」

教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」

●尊敬
●共同体感覚

尊敬の第一歩は、「他者の関心事」に関心を寄せる

●過去は存在しない

人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「いまのわたし」の正当性を証明すべく、自由自在に書き換えられていくのです。
人間の記憶は、いまの「目的」に反する出来事は消去するのです。

●カウンセリングの三角柱
「悪いあの人」「かわいそうなわたし」「これからどうするか」

●人間の問題行動の5段階
1 称賛の要求
2 注目喚起
3 権力争い
4 復讐
5 無能の証明

第1段階 称賛の要求
 目的はあくまでも「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば「共同体のなかで特権的な地位を得ること」
 「いいこと」をしているのではなく、ただ「ほめられること」をしているだけ
 「ほめるてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身に付けていくのです。

第2段階 注目喚起
 称賛されないなどの場合、人は「ほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考える。
 多くは「いたずら」によって、注目を得ようとするだろうし、ときには「できない子」として振る舞うことで注目を集め、特別な地位を得ようとするわけである。

第3段階 権力争い
 誰にも従わず、挑発を繰り返し、戦いを挑む。その戦いに勝利することで、自らの力を誇示し、特権的な地位を得ようとする。
 その戦いは、「反抗」であったり、「不従順」である。
 対処方法は彼らの挑発に乗らず、すぐさま彼らの権力争いのコートから退場する。

4 復讐
 権力争いに敗北した人は、次はかけがえのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復讐をする。
 「称賛の要求」「注目喚起」「権力争い」はすべて「もっと私を尊重してほしい」という愛を乞う気持ちの表れである。
 そうした愛の希求がかなわないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになる。
 私を愛してくれないのなら、いっそ憎んでくれ。憎悪という感情の中で、わたしに注目してくれと考えるようになる。
 「権力争い」では正面から正々堂々と戦いを挑んでくるが、「復讐」では、ひたすら「相手が嫌がること」を繰り返す。
 ストーカー行為は、典型的な復讐である。また、自傷行為や引きこもりも復讐の一環である。

5 無能の証明
 「特別な存在」として、愛されることはもちろん、憎むこともしてもらえないと、「これ以上私に期待しないでくれ」と思い、「無能の証明」につながる。
 これ以上の絶望を経験しないため、「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。
 あからさまな愚者を演じ、なにごとにも無気力になるなど、自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手を使って「証明」しようとする。
 愚者を演じるうちに何らかの精神疾患を疑われることもあるほど、自らにブレーキを掛ける。

●所属感
 人間の抱える最も根源的な欲求。つまり孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。
 問題行動のすべては、「共同体のなかに特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている。

 問題行動は、叱られることを含んだ上での行動であり、叱責されることは彼らの望むところです。

●暴力
 暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーション手段である。
 暴力とまでいかなくとも、声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして、相手を威圧し、自分の主張を押し通そうとする行為もコストの低い「暴力的」なコミュニケーションである。 

われわれは「他者の指示」を仰いで生きていたほうが、楽なのです。

●貢献感
 幸福の本質は「貢献感」

●承認欲求
 ほめられることでしか幸せを実感できない人は、人生の最期の瞬間まで「もっとほめられること」を求めます。
 その人は「依存」の地位に置かれたまま、永遠に求め続ける生を、永遠に満たされることのない生を送ることになる。
 他者からの承認を求めるのではなく、自らの意思で、自らを承認するしかない。
 そのためには「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのである。
 「人と違うこと」ばかり際立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他ならない。

●人生のタスク
1 仕事 2 交友 3 愛

●苦悩
 すべての悩みは、対人関係の悩みである。またすべての喜びもまた、対人関係の喜びである。

●信用と信頼の違い
 信用とは、相手のことを条件つきで信じること
 信頼とは、他者を信じるにあたって、いっさいの条件をつけないこと
 「その人を信じる」自分を信じる、つまり自己信頼あっての他者信頼である。

 仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係とは「信頼」の関係である。

 利己心を追求した先に、「他者貢献」がある。

●われわれ人間は、わかり合えない存在だからこそ、信じるしかない。

●人間はひとりでは生きていけない
 人間はただ群れをつくったのではなく、「分業」という画期的な働き方を手に入れた。
 他者と「分業」するためには、その人のことを信じなければならない。疑っている相手とは、協力することができない。

●正義に酔いしれた人は、自分以外の価値観を認めることができず、果てには「正義の介入」へと踏み出します。

●汝の隣人を、汝みずからの如くに愛せよ
 自分を愛することができなければ、他者を愛することもできない。自分を信じることができなければ、他者を信じることもできない。
 自己中心的な人は「自分のことが好き」だから、自分ばかり見ているのではありません。実相はまったく逆で、ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安にさらされているからこそ、自分にしか関心が向かないのです。

●まずは自分自身が争いから解放されなければならない。自分を棚に上げて全体の話をするのではなく、全体の一部である自分が、最初の一歩を踏み出すのである。先の結果を憂うのではなく、あなたができることは、いちばん身近な人々に信頼を寄せること、それだけです。

●落ちる愛は「所有欲」や「征服欲」となんら変わらない。恋に落ちるのは、本質的に物欲と同じである。

●愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である。

●愛の正体
 不可分なる「わたしたちの幸せ」を築きあ上げること
 人生のすべての選択において、「わたし」の幸せを優先させず、「あなた」の幸せだけに満足しない。「わたしたち」の二人が幸せでなければ意味がない。「ふたりで成し遂げる課題」とは、そういうものである。

●人生の主語
 われわれは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。
 しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった主語は、「わたしたち」の変わります。
 幸福を手にれるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。

●自立
 すべての人間は、過剰なほどの「自己中心性」から出発する。そうでなくては生きていけない。
 しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。
 つまり、自立とは「自己中心性からの脱却」なのである。

●愛、自立、共同体感覚
 人間は変わることができる。愛は「わたし」だった人生の主語を、「わたしたち」に変える。
 われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、ほんとうの意味での世界を受け入れるのである。
 たったふたりからはじまった「わたしたち」は、やがて共同体全体に、そして人類全体にまで、その範囲を広げていくのである。それが共同体感覚である。

●愛されるためのライフスタイル
 われわれはみな、命の直結した生存戦略として、「愛されるライフスタイル」を選択する。
 それは、いかにすれば他者からの注目を集め、いかにすれば「世界の中心」に立てるかを模索する、どこまでも自己中心的なライフスタイルなのです。
 あなた自身が採用しているライフスタイルも子供時代の生存戦略に根ざした「いかにすれば愛されるか」が基準となっているのではないか?
 あなたが隠し持つ子供時代のライフスタイルを直視し、刷新しなければならない。愛してくれる誰かが現れるのを待っていてはいけません。
 

誰かを愛するということは、たんなる激しい感情ではない。それは決意であり、決断であり、約束である。

運命とは自らの手で作り上げるもの

運命の主人

われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。

「愛し、自立し、人生を選べ」

われわれはアドラーの思想を大切にするからこそ、それを更新していかなければならない。
原理主義者になってはならない。これはあたらしい時代に生きる人間に託された使命なのです。

われわれに与えられた時間は有限である以上、すべての対人関係は「別れ」を前提に成り立っています。
現実としてわれわれは、別れるために出会うのです。
だとすれば、われわれにできることはひとつでしょう。
すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。
それだけです。

【感想】
アドラー心理学なるものを私は知らなかった。
ベストセラーとなった前作もタイトルは知っていたが、読んでいなかったのに、その続編を読むのだから、我ながら、大したものだ。(笑)

本著は、ノンフィクションかと思うような哲学問答でアドラー心理学のエッセンスがあたかも解説されるがごとく進むため、実に理解がしやすい形となっている。

その結果、本書を読んだ私の印象は、「アドラー心理学、恐るべし」である。

アドラー心理学の理論は、とにかく論理的であるとともに、哲学と呼びにふさわしい、珠玉の名言というにふさわしい文章が、上のように、無数にちりばめられているのである。

特に問題行動の5段階理論は、私の経験上、完璧な理論だと思いましたよ。

もし私が若ければ、アドラー心理学にまさに心酔したところであろう。

しかし、残念ながら50も過ぎている私は、この熱量の高い啓発本といえども、なかなか、それだけでほだされることは無いのだ。(笑)

宗教的ともいえるような清廉潔白な愛の理論や深い思索から導き出された人間の善性に訴えかけるような考察と問答に圧倒されるのであるが、競争原理を否定している部分がどうしても気に入らないのである。

人間はいかに崇高な存在であるとはいえ、所詮は生物であり、ゆえに生存競争を忌避することはできないであろう。人間独自の分業社会は競争社会でなく共同社会でるとの論理には一理あるとは思うが、生存競争の際たる生殖活動については、共同だの分業だのが入り込む余地のない、異性にとって一番の存在となるという、まさに競争に勝ち抜く以外に、生殖を営むことはできないわけで、これはアドラー主義者といえども異論がないはずである。

そのあたりは、遺伝子やバイオテクノロジーといった今は誰でも知っている科学的知識が欠如していた時代の学者さんによる限界だったのかもしれません。

しかしながら、珠玉の名言に溢れている本著は、人生の指針として、読むに値する十分な内容のある名著でありますので、最終的には絶対的にお勧めいたします。m(__)m

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