働けることが選ばれた人間であるという証
高齢者ケアサービスに係るオーストラリア視察の報告書に書いてあった印象的なフレーズである。
以下、報告書の所感の一部を引用する。
今回の視察を通して感じたことは、日本とオーストラリアにおける国民の価値観・文化の違いが、高齢者ケアサービスに強く反映されているということだ。そもそも、オーストラリアでは、所得の47%が所得税であるが、特に国民の不満が感じられない。なぜならば、オーストラリアでは「働けることが選ばれた人間である証であり、弱者を救済できることが誇りである」と感じているからである。
日本では、世界に類を見ない高齢化をネガティブに捉えている印象が強いが、オーストラリアのように、ポジティブに捉えること、つまり、高齢になっても、自身が健康で働き続けられることによって、社会の役に立つという誇りと価値観を日本にも植え付けていくことが重要なことのように感じられた。
【ひと言】
「弱者を救済できる誇り」とは、いかにもキリスト教的な考え方であると思う。
オーストラリアには行ったことがないが、歴史・文化・政治体制の良く似ているお隣のニュージーランドには3度120日ぐらい滞在したことがあり、そのうち8週間はホームステイをしていた経験から、オーストラリアの価値観とはそういうものだろうなと思える。
私の滞在したホームステイ先は、当時50歳代のご夫婦と16歳の少年(末っ子で上二人の兄姉は独立済み)で、ホストマザーのお母さんは近くの老人ホームにいて、一度だけ一緒にそのホームを訪ねたことがあった。
外国人の私なら、ぶしつけな質問も許されるだろうと思って「親と一緒に住まないのか?」と訊いたら、「子どもの世話にはなりたくない」と答えたこと、さらには、親とは一緒には住まないが、ホストマザーは頻繁に老人ホームの母親を訪ね、独立した子供らもホストマザーの家に良く立ち寄っており、老親についても老人ホームに追いやったというより、むしろお互いに自立することで、より緊密な関係を維持する、そういう家族愛の強さを感じ、そういう家族の形もいいなあと思ったことがとても強く印象に残っている。
今でも日本の農村地帯では、高齢者が働き手の主力でいきいきと頑張られている訳で、それは過疎化でやむを得ないという側面もあるが、農村社会では確実に高齢者それぞれが誰かの役に立っているという充足感を部外者の私ですら感じられることもある。
問題は、私のようなサラリーマン家庭育ちの者は、いまさら都会の便利な生活を捨てて、農村生活はできず、それ以上に最大の問題は、自己責任で生きてきたかのような錯覚とそれに基づく相互扶助関係が負担としか感じないような日本人が増えてしまっているということに繋がっているのではないか?
日本の税負担は世界的にはかなり軽い方にもかかわらず、増税できず、社会的弱者に十分な手が差し伸べられず、その結果、老後は自己責任と考えた多くの勤勉な日本人はせっせとお金を貯めるという行動様式に表れている気がする。
と書きながら、ネガティブな考え方になることを戒めなければならないのに、俺もダメだなあというのが、感想と言うか反省です。
きっと、誰もがいつか社会の役に立つことに喜びを感じる日が年齢を重ねていけばいつか来るだろうから、それまで楽しく気長に待ちましょう!
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