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2012年3月20日 (火)

荼毘(だび)に付すという事

先日、広島の田舎で叔母の葬式をした。
千葉からとりあえず駆けつけての慣れない田舎のお葬式だったが、それなりの役割は果たせたと思う。
身びいきかもしれないが、とても良い葬式だったと思う。そして改めて葬儀とは何かを心に刻み込めた気がする。

Imgp9434Imgp9432 本家の自宅に叔母は3ヶ月ぶりに入院していた病院から戻ってきた。Imgp9427 帰りたくて帰りたかった場所であるのだが、自らの力でたどり着く事はできなかった。きっとさぞかし無念であろうが、最後に一晩だけでも家で過ごさせることができたのが、残された遺族にとってのほんのわずかな救いであった。

我われはただただ、無言の叔母に寄り添い、悲しみを共有しつつ、日常の雑事に追われることなく、葬儀の大枠を詰めていく。
日常の雑務と葬儀の具体的な準備は、組内(くみうち)と呼ばれる部落の人たちによって、つつがなく進められる。

お通夜は、本来のお通夜として、セレモニー的なものはなく、お寺さんから住職が来て、お経を上げてもらい、叔母の死を悔やみつつ、輪廻の理の講話を聞いた。

終わると一族十数人でコタツにあたりながら、亡き叔母が老人福祉施設で慰問コンサートを行い、そのテレビ取材での映像DVDを観た。わずか5ヶ月前の映像であるが、生き生きとした叔母の歌う姿に皆が悲しみを強く感じるとともに早すぎる死を身内ながら惜しまざるを得ない。

そして、明日の葬儀の段取りを整えた後、叔母と一緒に本家での最後の晩を過ごす。叔母の眠る仏間の続き部屋で眠った。Imgp9428

明朝は、本家の墓に詣でた。Imgp9439 といっても本家の直ぐ脇にあるのであるが。やがて親族が10時に本家に集まって、Imgp9452 叔母の横たわる仏間とつながる広間にて食事をともにし、Imgp9453 改めて悲しみを共有しつつ、最後のひと時を過ごす。そして葬儀の最終確認も行った。

出棺前に叔母の御棺を開けて、最後のお別れのための納棺のセッティングを行った。ドライアイスを入れ、叔母の寝姿をもっとも楽に、そして皆に顔が良く見えるように長姉である伯母とその長男(別の寺の住職)、そして私で調整した。やせ衰えた叔母の姿は何度見ても涙が出てしまうのであるが、それでも時間は少しずつ、諦めの境地に誘ってくれるのを感じる。Imgp9447

11時に出棺し、たった6軒しかない小さな集落の組内の男性に混じって、霊柩車まで運ぶ。たった3人で運べる棺の軽さが、かえって私達の悲しみの重さを増すかのようだ。Imgp9460

町に1箇所の葬儀場所に親族の車に便乗して向かう。本家にはバスが入れないからだ。

葬祭場では、担当者と打ち合わせ。喪主である父に付き添って、内容を確認する。地元に住まう伯母や叔母を中心に葬儀は組み立てられた。Imgp9465 Imgp9467

町の有線放送で今日の叔母の葬儀は町中に知れ渡っていること、3つのコーラスの指導者であり、その他にピアノ、ハンドベルの教え子らが数多参列してくれた。200人は居たのではないか。

本人の希望で闘病を付していたので、御棺に眠る叔母の姿に教え子達は絶句し、みなが号泣していた。

供花の立て札の名前を確認し、順番を決め、お坊さんに挨拶していた。お坊さんは5人という大所帯だ。

お寺は浄土真宗であり、銅鑼も鳴らされ、にぎやかなお経である。

喪主の長男と言う立場から、私のお焼香は母と一緒の2番目だった。

やがて、弔辞が2つ読まれ、叔母が教えていた3つのコーラスグループ合同での叔母が好きだった「ふるさと」合唱があった。最前列の遺族席で涙を抑えることができなかった。

遺族を代表して、父が喪主として挨拶を終えると、参列者の多くは帰るのがしきたりらしく、私は一番上の伯母と亡くなった叔母の一つ上の姉であるり、父の妹である叔母で参列者の見送りに向かった。

喪主である父は、引き続き行われた初七日の法要に立ち会っていた。
私達は見送りを終えると、最後に初七日の法要の焼香をして、着席した。

直ぐに初七日の法要も終わり、御棺を開けて、叔母との最後のお別れに向け、御棺に花をいっぱい捧げた。
お別れの儀とか別れ花とも言うらしい。花に囲まれた叔母に最後のお別れをした。最後のお別れには、親族のみならず多くの参列者が残り、花を捧げてくれていることが、田舎の葬式らしくもあり、何より素晴らしい見送りだと思えた。Imgp9468

葬儀場に併設された火葬場に向かう。御棺を持ち、電動台車に載せる。あとは電動台車が大事に抜かりなく運んでくれる。

火葬場に到着。読経し、本当に最後のお別れをする。合掌とともに扉の向こうに棺が納められる。あとは亡骸が燃やされるだけ。つまり荼毘に付されるということだ。(今は全自動でこれらが行われる。百年前ならこれらも組内で行われたことなのだろう。遺体を焼くのは大変な作業だろう。)

骨上げ(収骨)まで1時間半との説明があり、精進落としをいただく。Imgp9469 親族と組内のもので、残さずいただく。残ったものは家に持って帰る。悲しみは葬儀を行うことで時間とともに少しずつ癒されていくようだ。

ここ最近はすっかりご無沙汰している叔父伯母従兄弟らと近況の話が交わされる。こういうときでしか会えないのは寂しいからと、来訪を期待される。それには応えたいなという思いになる。普段は一体とまで言えないが、一族たるものこういうときは誰彼となく共同で心を一つに協力できることが、きっと当たり前のことなのだろうが、とても新鮮で、そして心温まる感じがした。

収骨の時間となり、荼毘に付された叔母は骨となってその姿を晒した。
たくさんの骨を拾うこと、それが成仏に向けて、我われができる最善なことだろう。
足の骨から箸で拾い、骨壷に収めていく。私もいくつか骨を収めたが、長姉でありこの場の最高齢である85歳の伯母がそれはそれは一生懸命に骨を拾っていた。その姿は一族の無念さを体現しているかのような、そんなことを感じながら、伯母の丸くなった背中からその一挙手一投足をただ見つめていた。

最後に喪主である父が咽喉仏をいれ、頭蓋骨の頂上部を被せるようにして骨上げが終わった。

叔母は小さな骨壷に収まってしまった。

もはや、ここまで来れば後戻りできない確かなものと思わざるを得ない。悲しみを持ちつつ、次に進むしかない。

死体埋葬許可証を係員から渡され、喪主である父は骨壷を、遺影は私が持って、組内の人に会釈して、本家に叔父の車で帰った。

骨となった叔母は自宅への帰還は玄関から入った。仏壇に安置した。
無念さよりも、この場に戻らせられて、安堵した気になっていた。

最後に組内の人も交えての組内念仏なる、この部落に伝わる風習を執り行った。
皆で叔母のために念仏を唱えた。Imgp9471

そして、親族と組内それぞれから、感謝の口上が述べられ、お開きとなった。午後6時くらいだろうか。
組内の人たち奥の院の集落5軒と応援の1軒の人たちに、葬儀に供えられた物をお裾分けした。

一族12人でコタツにあたり、茶を飲みながら、今日の葬儀を振り返りながら、これからの段取りを確認した。今日は、我が父母と叔父叔母と私の5人で精進落としの残りを食べて、骨となった叔母と最初の晩を過ごした。Imgp9472

そして、翌朝、追悼ランをした。

荼毘に付す(火葬する)ということは、成仏を願う我われのためであるということが、よくわかった。
長い年月の間に形作られた、この形式には、我われがより良く生きていくための、先人たちが作り上げた智恵の結晶と感じ入った。

故人の死を悲しみ、その無念を思うとともに、その想いを受け止めて未来への次の一歩を踏み出していく、そのための儀式がお葬式なのだろう。
そうは言っても、長く濃密な時間を過ごしたかけがえのない家族との別れはそう簡単な話ではないでしょうが・・・

追記:
 叔母の入院を地元広島で支えた親族に感謝するとともに、その無償の行為は一族として誇りに思う。
 私は、千葉に拠点を移してしまったが、この思いとこれまでに受けたご恩への感謝は一生忘れない。

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