【書評】モノが語る日本列島史 旧石器から江戸時代まで 藤本 強/著
考古学とは推理小説の世界であるようだ。本著を読めば、まさにそのことが明らかである。遺跡・遺構とそこから出てくる遺物、そうした物言わぬ物的証拠(モノ)から、当時の社会を推測していく。そこはまさに探偵が犯罪を推理している世界そのものだ。そんなことは常識なのかもしれないが、私は本著のおかげで今回初めて実感できた。
1994年刊行の古い書籍である。日進月歩の考古学の世界において、本著が展開する説明は、一世代古い、あるいはもはや間違った解釈になっているかもしれない。
それでも、本著は見事に考古学の魅力ある世界を紹介していることは疑いのないものである。
文献資料のない縄文時代、弥生時代はもちろんのこと、文献が豊富な江戸時代であっても、当時のモノから文献だけでは得られなかった当時の生産、物流、生活状況について、確認できることが、よくわかりました。
(縄文時代に)日本列島には、農耕を受け入れる機会は何度か訪れていた。ところが、それを受け入れることなく従来の生活が続けられていた。(中略)多雨多湿で夏にはきわめて高温になる日本列島の自然、そこで農耕する作業効率と採集する作業効率を比べ(中略)、雑草との闘い、これが日本列島の農耕の最大の問題であり、その欠点を取り除くものとして営まれるようになったのが水田による稲作農耕なのではないか。
いったん定着した弥生文化は、縄文時代に利用されていた生態系の活用システムをもとり込み、各地に異なった生態系の利用法を確立していく。両文化の摩擦が見られず、きわめてスムーズにしかも速い速度で転換がなされたようだ。
このような転換がスムーズに行われた背景として、弥生文化が縄文文化には利用されなかった生態系を利用するシステムだったということと、縄文文化自体の行き詰まりに直面していたと考えられる。また縄文文化が採集社会の中にあって異常なほど発達した社会組織を持っており、受け入れる体制が整っていたことも想像できる。
歴史好きを自認している私としては、かなり興味が薄い古墳前の時代考察について、ものすごく勉強になりました。
本著を読んでの思いは、日本人は、多くの外来文化に接触しながら、自分達に合わせて、最適な形で取り入れることを続けてきたということですね。
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