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2011年3月24日 (木)

大震災で多くの人を助けるために最後まで踏み留まって命を懸けた人々

命綱の衛星電話守った…津波にのまれた事務局長
読売新聞 3月23日(水)3時7分配信

津波にのみ込まれ、壊滅した県立高田病院(21日、岩手県陸前高田市で)
 東日本巨大地震の大津波で全壊した岩手県陸前高田市の県立高田病院のスタッフが、1台の衛星電話を手に、市内の別の場所に設けた仮設診療所で被災者の診療を続ける。

 「横沢伝声器」とスタッフが呼ぶこの衛星電話は、今月末で定年退職する予定だった病院事務局長の横沢茂さん(60)が、命をかけて津波から守った。有線電話や携帯電話の不通が続く中、薬品調達や救急患者の情報収集の〈命綱〉となっている。

 11日の地震発生直後、鉄骨4階建ての病院は入院患者や医師のほか、避難してきた住民ら100人以上であふれていた。「大きな津波が来るぞ」。数分後、あちこちで声が上がった。

 3階にいた事務員の冨岡要さん(49)は窓の外を見た。10メートルを超える大きな津波が迫っていた。1階事務室まで階段を駆け下りると、横沢さんが窓際に設置されていた衛星電話を取り外そうとしていた。通信衛星を介して通話する衛星電話は、地上の施設が壊滅すると使えなくなる携帯電話や固定電話と比べ、災害時に強い。

 「津波が来ます。早く逃げて下さい」。冨岡さんは大声で伝えた。横沢さんは「これを持って行かなければダメだ」と叫んだ。冨岡さんは駆け寄り、横沢さんから衛星電話を受け取って、屋上まで駆け上がった。病院が4階まで津波にのみ込まれたのは、その直後。横沢さんは行方不明になった。

 衛星電話は11日こそ起動しなかったが、屋上からヘリコプターで救助されたスタッフらが13日に再び試すと、回線がつながった。

 衛星電話で薬品や医療機器の融通を他の病院や業者に依頼。体制を整えた病院は震災4日後の15日、同市米崎町のコミュニティーセンターに診療所を仮設し、医療活動を再開した。22日も衛星電話が避難所の急患情報を得る唯一の手段だ。

 診療再開後は、毎日約150人以上が訪れる。高血圧や糖尿病の患者、地震のショックで眠れないと訴える人など様々だ。地震前から高血圧で通院していた菊池利義夫さん(83)は「こんな状況でも、きちんと薬を出してもらえる。本当にありがたい」と話す。

 横沢さんの遺体は21日、遺体安置所を捜し歩いていた妻の澄子さん(60)と長男の淳司さん(32)らが確認。22日、同県紫波町の自宅に帰った。横沢さんは県の病院事務職員として単身赴任で県内を巡り、2年前から高田病院事務局長になった。同僚たちは「患者の目線に立った柔らかい語り口で好かれていた」と口をそろえる。

 遺体と対面した澄子さんは、「お父さん、ご苦労さま」と心の中で語りかけながら、右耳についた砂を手でそっと払った。「患者のために忙しく、自宅への連絡まで気が回らないのでは」という祈りはかなわなかった。だが、今はこう思う。「皆さんのために役だったのは本当に良かった。本人も家に戻ってこられて、安心したでしょう」

 衛星電話には「事務局長さんが天国で手伝いしています」と書かれた紙が張られている。(天野雄介) 最終更新:3月23日(水)3時7分

鳴らし続けた半鐘…消防団11人死亡・不明
毎日新聞 3月23日(水)14時28分配信

津波に流され変形した火の見やぐら(手前)に向かって敬礼する大槌第2分団員。赤い字で「火」などの看板が残り、わずかに原形をとどめている=岩手県大槌町で2011年3月22日、山本将克撮影
 東日本大震災で1000人を超える死者・行方不明者を出した岩手県大槌町で、大槌町消防団第2分団(越田弘分団長、28人)の団員たちは、防潮堤の門扉を閉じ、住民を避難させようと最後まで海辺にとどまった。任務を果たした結果、4人が死亡し、7人が行方不明。その中の一人、越田冨士夫さん(57)は団の象徴である「半鐘」を鳴らし続け、津波にのみ込まれた。

 海岸に近い大槌町の安渡・赤浜地区。第2分団は地震が起きると真っ先に門扉を閉じる決まりになっていた。11日も団員たちは一斉に防潮堤へ向かった。

 「おみゃーは屯所でサイレン鳴らせ」。14カ所ある門扉の1カ所を閉め終わったところで、団員の飛内邦男さん(55)は越田さんからそう指示された。

 津波が迫っていた。住民を円滑に避難誘導するには、全域に危険を周知する必要がある。飛内さんはサイレンを鳴らすため近くの分団屯所へ車で向かった。

 スイッチは1階。ボタンを押した。鳴らない。地震で町全域が停電し装置が作動しなかった。

 間もなくして越田さんが屯所にやってきた。状況を報告すると越田さんは「よし」と一声。屯所の屋上に上がり叫んだ。「早ぐ行げ。みんなを避難させろ」。その時、飛内さんは、越田さんが普段は火の見やぐらから外してある半鐘を手にしているのを見た。これが最後の姿だった。

 「カン、カン、カン」。大災害時にだけ使用が許可されている特別な鐘。その乾いた音は遠くまで響いた。当時、数百メートル離れた高台に避難していた元分団長、東梅武保さん(72)は「海の様子が見えていたんではないか。何とも寂しい音だった。今も耳から離れね」。

 第1波が到達したのは午後3時20分ごろ。高さ約5メートルの堤防を軽々と乗り越えた黒い波は、渦をまきながら集落をのみ込んだ。同じころ、屯所の近くでは団員10人前後が高齢者の避難を手伝っていた。住民や団員に警報を出し続けた半鐘の音は、津波が屯所に達するまで鳴っていた。

 津波が引くと、屯所は建物の基礎部分だけを残し消えていた。変形した屯所のやぐらが、がれきの中から見つかったのは10日後のことだ。

 越田さんと半鐘の行方は、今も分かっていない。【鈴木一生、山本将克】

 軽々しく美談というようなことは言えませんが、海外からも称賛されるような東北をはじめとする被災された人々の忍耐強く、ひたむきで、明るさを失わなず、最後の最後まで知恵と勇気を振り絞って成し遂げる、そんな生き方を少しでも見習い、家族や地域社会の一員として、日本人として、地球に住む人間として、彼らの思いを少しでも受け継いでいきたいですね。

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